昨今のコ〇ナ騒動が関連して、〈マスクのポイ捨て〉が頻発しているという事実。

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こんにちは。リオ / Rioです。

久しぶりの投稿になります。結構時間が空いてしまいましたね。      昨今、世間では相も変わらずコ〇ナ関係でゴタゴタしている様に感じます。そんな中、この「コ〇ナ関係の問題」と「私が過去に書いた記事」とが関連して、「悪い方向性への変化を感じた出来事」がありましたので、今回はこのトピックについてお話していきたいと思います。   

(*)そもそもの前提としまして、私は「コ〇ナの菌」が一体何なのかすらわかりません。「水やコーラにすら陽性反応を出すP〇R検査の存在」や、ワク〇ン接種から体調を悪化させ、そちらの方が体調不良や重傷者を出している始末・・・。謎ばかりを感じています。                  よってこの記事は、「世間一般ではコ〇ナを恐れ、それゆえにマスクを着用する環境が構築されている状態⇒そこから派生する思考や思想」という観点から書かせていただきたいと思います。

よろしくお願いいたします。

お願いします.

 

過去に「〈身近な環境でさえポイ捨てが無くならない。なら、世界ではもっと・・・。〉というお話。」というテーマの記事を書かせていただいたことがあります。

こちらの記事では主に、「私の身近な環境ですら多くのゴミが落ちている」・「私はランニングを日課としていて毎回同じルートを通るが、自分がゴミを拾っても次の日には〈また新たなゴミ〉が発生している」・「〈自分さえ良ければ・自分の身の回りさえ綺麗になれば良い〉といった考え方を改めたり、そもそも地球や自然の事をもっと考えるべきではないか」といった内容について書かせていただきました。                             残念な事に、それ以降も相も変わらずゴミは減ることなく発生し続けているのが現状です・・・。

しかし、そんな「減る事のないポイ捨てゴミ」の種類に、「今までは無かった種類のポイ捨てゴミ」が最近では新たに加えられました。とても悲しい事です・・・。

その新たなゴミとは・・・「マスク」です。

ここから書く事はあくまで私個人の推測であり、確証のあるものではありません。しかし、「この考えで、あながち間違ってはいないのではないのかな?」とも感じています。                           それでは具体的にお話を進めていきましょう。 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー            ・マスクのポイ捨てゴミが急激に増加している                     ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー   

この今までは一切なかった「マスクのポイ捨て」が最近急激に増えています。私の体感上では明らかにです。

まず、この理由。                            これは明らかにコ〇ナ騒動が影響しているでしょう。そして次に、「何故、マスクをポイ捨てするのか」・「何故家に持ち帰って捨てないのか」について考えていきます。                             私の考えでは、これは「自分の家に菌の付いた汚いものを入れたくない(コ〇ナの菌が付いた可能性のある物を家に持ち帰りたくないという思考)」・「汚い菌の付いた物を自分の家に入れて、それが原因で自分が感染したら困る」・「だったら外に捨ててしまえば自分が感染する可能性は無くなる」。
こんなところでしょうか。

繰り返しになりますが、これはあくまで私の推測であり見解です。実際にマスクをポイ捨てしている人を捕まえて、「どういった心理でマスクを捨てているんですか?」と質問したわけでもありません。              しかし、何年も同じルートをランニングし続けて、「そのエリアにはどんな種類のポイ捨てゴミが多いか」を把握している私が、冬のインフルエンザの流行シーズンですら、この「マスクのポイ捨てゴミ」に遭遇したことはまず記憶にありません。あったとしても片手で余裕をもって数えられる程度でしょう。

もし、仮に上記の私の推測が正しいとするならば、「こんなに悲しい事はない・・・」というのが素直な感想です。                   「コ〇ナ騒動ゆえのマスクのポイ捨て」が頻繁に発生している以前に、世の中では「ゴミのポイ捨て」は当たり前の様に蔓延しています。それは結局、「自分さえ良ければいい・自分の身の回りさえ綺麗になればいい・地球や自然の事なんて知ったこっちゃない」という心理が働いているからに他ならないからでしょう。

百歩譲って、これまでは「単に自分が食べ終わったり、使い終わったゴミをポイ捨てしているだけ」に過ぎなかったかもしれません。しかし、今回のマスクのポイ捨てに伴うその心理には、それ以上の「根深く・汚い・自分本位の深層心理」が絡んでいる様に強く感じます。

具体的には、「菌が付着した可能性のあるマスクを家に持ち帰りたくない」⇒「だったら外に捨てればいい」⇒「そうすれば自分は健康でいられる」⇒「その後の〈自分がそれ程までに恐れているマスクに付着した菌〉の事は、外であれば後はどうなろうと知ったこっちゃない」

この様な「深層心理」「思考回路」が根底にはあるのではないかと推測します。                                 これまでは「自分が使用して要らなくなった物が邪魔になった」⇒「場所を問わず捨てよう」というある種シンプルな心理であったはずが、「危険性を帯びた使用した物を早く自分から遠ざけたい」⇒「場所を問わず捨てる」⇒「その危険性を帯びた可能性のある物のその行き先や結末。加えて、その危険性を帯びている可能性のある物が、その後どの様に捨てられた自然の中で作用していくのかという〈その先〉を見据えた思考が一切ない」という思考が、「かなり危険な思想」にすら感じてなりません。

こういった「自分自身が感染を恐れ、触れたくすらない物を、自然に対して当たり前の様に廃棄する」。                               こういった思考に基づくこの様な行為は、この地球に住む人間として看過できるものではありません。これは明確な自分本位の思考であり、「自然に対する冒涜と、他者を重んじない行為そのもの」であると言う事が出来ると思います。                                 もし仮に「コ〇ナウィルスなるものが、地球上の生物を危険にさらす可能性がある物」だと仮定するならば、外の、自然の中に存在する動植物達はどうなるのでしょうか?仮に空気中にすら蔓延・拡散されるのであれば、人間にとっても危険な可能性をばら撒いている事に他なりません。                          昆虫たちは?野良猫は?野良犬は?山を切り崩され、住処を追われ、やむを得ず人間のコミュニティに足を踏み入れざるをえなくなった動物達は?                              彼らが捨てられたマスクの臭いを嗅いだり、舌で舐めたりする可能性もあり得るでしょう。                             植物だって我々人間と同じ様に、大気中や空気中の酸素を吸い呼吸しています。極端な例ではありますが、体に悪い菌だらけの個室に植物を置いて生活させたら、すぐに枯れてしまう事は明らかでしょう。

これらの行為は「対:人」だけではなく、「対:動植物」という視点も明らかに欠けている行為に感じられます。                  「対:人」にすら考えを及ばせられない人間が、「対:動植物」にまで考えを及ばせられる訳がないと言ってしまえばそれまでかもしれませんが、とても悲しく、虚しい事であります。                      その行為の背景に見える「その人間の思考」という部分に考えを及ばすと、「自分だけでなく、もっと全ての物事に対しても思いやりを持ってほしい・・・」と感じざるを得ません・・・。                    

                                   こんな身勝手な思考と行為が、現在世界を取り巻くコ〇ナ騒動の中で当たり前の様に「行われている」と考えると、とても虚しい気持ちになります・・・。

そもそもこの地球で生きている以上、ありとあらゆる所に菌は居ます。しかし、そのおかげで自分の免疫力を無意識の内に、且つ自然に高めることが人間は出来ているのです。そんじょそこらの菌では効かない強い体を人間は知らない内に作ることが出来ているのです。

賛否両論はあるかもしれませんが、これはコ〇ナに関しても言える事だと個人的には感じています。                         日々マスクを着用することを強いられ、本来であれば触れているはずの菌と接触しない(接触できない)環境下が社会に構築されているが故に、免疫力の低下へ。そして、マスクを挟むことで本来の自然な呼吸が出来ないことから、体も酸素不足になり体調の悪化や、上記と同じく免疫力への影響にも繋がる。                                 これらは悪循環以外の何物でもないでしょう。                    

そして今度は、日々着用しているマスク(仮にも着用しているのであれば、マスクにはお世話になっているはず)を「汚いから家に持ち帰りたくない」・「危険性がある」等といった理由から外にポイ捨て・・・。                                  「人としての礼儀」「自然に対する敬意」、そして「他者(動植物含む)への配慮や思いやり・誠意」といった、「本来、人間が持ち得るもの(特に日本人)」は一体どこに行ってしまったのでしょうか?

上記に記した3つの物を自然と持ち得ている人間であれば、ゴミのポイ捨ては勿論、今回テーマにしたマスクのポイ捨てなどの行為は絶対にしないはずだと個人的には感じます。

物事の表面的な部分ではなく「本質的な事」を理解し、その上で「人としてどうあるべきか」・「人としてどの様に行動するべきか」という事柄を、今一度真摯に向き合い改める必要がある様に感じます。

誰しもが当たり前の様にそんな事を、「感じ・考え・行える世界」になることを心から願います。

〈ウマ娘〉から知った、現実の競馬に伴う馬達の命。

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こんにちは。リオ / Rioです。

先日は、「〈身近な環境でさえポイ捨てが無くならない。なら、世界ではもっと・・・。〉というお話。」というテーマを基に記事を書かせていただきました。

本日は、「〈ウマ娘〉から知った、競馬に伴う馬達の命」というテーマを基にお話をさせていただければと思います。                 よろしくお願いいたします。

お願いします.

本題に入る前に少し寄り道を。                     皆さんは「ウマ娘」という作品をご存じでしょうか?            Cygamesというゲーム会社が原作を手掛けており、現在はアニメの2期が放送されています(2021年3月23日時点)。最近ではアプリゲームもリリースされており、かなり好調の様です。アプリゲームはつい先日リリースされたばかりにもかかわらず、セールスランキングで1位を獲った程です。                                

このウマ娘という作品をご存じない方々にどういった作品かをご説明させていただきますと、現実世界にある「競馬」で実在した馬を擬人化させ、「王道スポコン系のストーリー」が展開されていくお話となっています。                この作品は実際の競馬ファンをも多く惹きつけている様で、その理由は「基本的に史実に基づいて物語が作られている」、「実際の馬の性格をキャラクターに反映させている」、「ジョッキーネタやコアな競馬ネタなどをアニメに取り入れている」など、競馬ファンをも唸らせる作り込みレベルの高さ、そして制作人側の「競馬=作品への情熱」が物凄いという部分が大きい様です。                                 私自身、この作品を見るまでは実際の競馬には一切興味のなかった人間だったのですが、そんな競馬素人でも物凄く楽しめてしまうくらいに素晴らしい作品だと感じます。                            ちなみに現在放送されているアニメのお話は、奇跡の名馬と言われている「トウカイテイオー」という馬がメインのお話となっており、ストーリーとしても非常に熱い構成になっています。かつて天才と呼ばれ栄光を欲しいままにしていた主人公が、幾度の骨折から不審に陥り、通常であれば「復活はないと思われていた中、奇跡の復活を果たす」という、まるで少年バトル漫画にありそうなストーリーですが、なんと実在した史実が基になってます。こういった部分が競馬ファンや、競馬を全く知らなかった層の双方を魅了している大きな要因の1つなのかもしれませんね。

 

そしてここから本題に移ります。                    大前提として始めにお伝えさせていただきたいのですが、私はウマ娘という作品が大好きです。胸が熱くなり、目頭が熱くなる様なストーリーには心を震わされました。そして、これからお話することは「ウマ娘」という作品に対してのものではなく、その元ネタとなっている「競馬」に対してのものとなります事をご了承ください。                   「これだけ素晴らしい作品が生み出され認知度が上がっているからこそ、同時に我々人間が知っておかなくてはならない事柄がある」と考えています。

 

何事においてもそうかもしれませんが、一見華やかそうな世界の中でも「光の部分と闇の部分がある」ということがよく言われると思います。これは現実の「競馬」においても、この言葉があてはまる部分が存在するのです。                                    上述したトウカイテイオーという馬の様に、私を含め競馬を全く知らない方でも「あぁ、何となく聞いたことがある名前かもしれない」というくらいに名を轟かせて活躍した馬も存在すれば、「全く名前を聞いたことすらない」という馬も存在します。                        そして、「名を轟かせた馬 (活躍した馬)=必ず引退後も幸せに余生を過ごせる」というわけではなく、「競走馬として生まれた馬達が天寿を全うできる確率は1パーセントに満たない」とも言われているのが現実です。                              *実際、引退後は乗馬クラブなどに引き取られ、大切に育てられている馬もいます。しかしその数は決して多いとは言えません。

この競走馬たち。彼らは毎年約7000頭生まれてくるとされています。そして競走馬として育てられる過程での事故や怪我、レースで結果を残せなかったなど様々な理由で引退を余儀なくされる馬は年間約5000頭。      そんな彼らが「その後どこへ行くのか」、「どうなるのか」を皆さんはご存じでしょうか?                             JRA日本中央競馬会)のホームページでは、「○○という名前の馬は○○乗馬クラブに行った」といった情報を共有さているそうですが、「'その乗馬クラブに行った後' どうなったか」という点について言及はされません。       端的に言うと、「その後」は「殺処分され、馬肉にされて売られてしまう」というのが大半なのです。

馬の寿命は約20年、中には30年生きる馬もいるそうです。そして「競走馬として活躍できない」、と''人間から見切られる''4歳以降になると、殺処分の対象になってしまうのが通例です。
「かつて活躍した有名な馬」でさえ、「引退後、あの馬はどこに行ったんだ!?」といった様に、誰も把握できていないという現実がごく普通に起こっています。

「こんなことが許されていいのか」と心から思います。

*大前提として、こういった問題に危機意識を持ち、競走馬から引退後の馬達に、「第二の人生を送らせてあげたい」と真摯に向き合われている法人様もいらっしゃいます。ただ、その数は圧倒的に少ないのが現状です。

 

考えてみてください。                         まず、毎年生まれてくる7000頭の馬達。人間側が彼らの意志とは一切関係なく、「競走馬」として一方的に育てるためだけに意図的に繁殖させ、「1つの命」を誕生させています。                      そんな人間の都合で1つの命が産み落とされているにもかかわらず、いざ「レースで勝てない」と判断されたのなら「もう要らない」、育てている過程で怪我をしてしまったのなら、「もう使えない」というレッテルを貼り、当たり前の様に切り捨てます。                               これが「人間の所業」と言えるでしょうか?個人的には「悪魔の所業」の様に感じます。                              馬は機械や物ではありません。生き物です。1つの命を持った生命です。我々人間となんら変わりはありません。

 

馬にも様々な性格があります。大人しい子・活発的な子・走るのが好きな子・ゆっくり歩くのが好きな子。                      百歩譲って、「そんな馬達の様々な性格を見極めた上で競走馬にする」という選択肢を取るのならまだしも、「競走馬にするためだけに繁殖させ育てる」という一方的な「人間のエゴ」で生み出した命に対し、「使えなくなったらもう要りません。その後の事はどこでどうなろうと知ったこっちゃありません」というのはあまりにも酷過ぎる、「命への冒涜」に他ならないのではないでしょうか?

これを人間に例えてみたらイメージしやすいと思います。             「あなたはかつてプロのスポーツ選手でした。今度生まれてくる子供がいます。その子供にもあなたが携わっていたスポーツをやらせ、プロのスポーツ選手に育てたいと思っています。しかし、いざ子供が生まれ接していくと運動神経が無く、プロなんて夢のまた夢だというくらいの〈素質のない子〉だという事が分かりました。性格自体も競い合うことが苦手な子で、スポーツ事態に向いていない様です。あなたはその子を見捨てて、見切って、殺しますか?」                               やっていることはこれと全く同じです。

おそらく、「いやいや、殺しはしないよ」と大半の人が言うでしょう。その理由として、「自分と血の繋がった子供だから」、「いくら才能がないと分かっても殺すまではしない」、「人を殺したら犯罪になるから」、「人間が相手だったらそんな事しないし出来ない」、などいろいろなものがあるでしょう。                               ではその対象が「馬」ならいいのでしょうか?「動物」ならいいのでしょうか?                                 それは違うと思います。  

まず、そもそもが自然の節理に沿って生まれて来た命ではありません。「人間が意図的に自分たちの都合で生み出した命」です。加えて言うのであれば、その「意図的に生み出した命を使って、お金儲けするために生み出している」のです。                                これは私が過去に書いた下記の記事、                        

という3つの記事においても、「動物と人間との命の格差」というテーマに触れて書かせていただいているので、是非目を通してみていただけますと幸いです。

もしかしたらここで、「じゃあ家畜動物はどうなるんだ!家畜動物を育てて生計を建てている人達もいるじゃないか!」という意見もあるかと思います。(この点につきましても上記の3つの記事で触れさせていただいています)                                   仰る通りだと思います。’’動物達の最期という結果のみに焦点をあてるのであれば’’その通りだと思います。食用の肉となり我々の元に届くのですから「結果は同じ」です。しかし、突き詰めればその本質は全く異なるというのが私の意見です。

確かに家畜産業に携わっている方々も動物を意図的に繁殖させ、育て、出荷し、生計を建てています。しかし、その根底にある大元の趣旨は、「最初から最期まで、我々が生かしてもらうための食糧として育てて、彼らの命に感謝して、彼らから命を頂く」という「根本の趣旨」があります。                             しかし一方で競馬は、「まず最初に人間の娯楽のため・ギャンブルのために育てる」という趣旨があります。そして、「馬達の意志など関係なく、有無を言わせず競走馬にするという人間のエゴを押し付け、鞭で叩き、調教するという過程」を挟みます。そして最後には、「レースで使えなくなったら殺処分して馬肉にする」という結果(本来の趣旨とは異なった結末=人間の都合で路線変更が行われた)に行き着くのです。                  「競走馬として使えなかったら馬肉に出来るし一石二鳥だ」という、「''保険''が伴った考え」がここに在る事が分かると思います。                             これはあくまで個人的な倫理観でしかないかもしれません。しかし、「自分達の思惑通りに育たなかったら切り捨てて殺してしまおう。まぁ、始めはそうするつもりはなかったけど」というのは、あまりにも人間本位で、馬達の心を弄び、踏みにじり、度を超えていると感じます。                                そういう意味で言うのであれば、「最初から馬肉として出荷するためだけに馬を育てている。競走馬としては絶対に扱わない」という趣旨の基に馬達を育てているのであれば、それは「道理が通っている」と思います。

 

極論ですが、競馬はギャンブルです。                  如何にその馬達やジョッキー達の背景に魅力的な背景や物語があろうと、競馬は「動物の命が伴ったギャンブル」です。                               大前提として私はギャンブル否定派ではありません。ですが、個人的な意見としてギャンブルは我々が生きていく上で決して必要な要素ではありません。無くても生きていけます。何故なら、「仮にギャンブルがこの世界になかったとしても、我々の命に影響を与えるものではないから」です。                                しかし一方で、人間は生きていく中で娯楽や快楽を求める生き物です。私自身もそうですし、それを否定できません。生きていく中で自分にとっての娯楽や趣味を見つけ、それに没頭する姿も素敵だと思います。ギャンブルもその1つだと考えています。パチンコ・カジノ・競輪・ボート、など様々なギャンブルが存在していますが、これらに興じるのも1つの娯楽だと思います。自分の生活に支障をきたしたり、親しい人に迷惑をかけない範囲内であるのであれば、お金を賭けること自体も何ら問題はないと思います。(お金を賭けずに競技そのものを楽しむ方もいらっしゃいますね)

しかし、上述した様々なギャンブルと競馬とでは大きな違いが1つあります。それは、「動物の命を使ったギャンブル」という事です。      (*)これはもちろん競馬だけでなく、その他の動物を扱うギャンブル全てに対して言える事です。                            「命」というものを平等に考える敏感な方であれば分かると思いますが、ここにどれ程の「人間のエゴ」が存在し、同時に「仮にそうするからには全うしなければならない人間側の責任があるか」という事を察せると思います。

上述したパチンコ・カジノ・競輪・ボート、などといったギャンブルのプレイヤーは人間です。そして、これらのギャンブルを行う際にプレイヤーが扱う対象となるモノは、「機械」や「物」です。私自身、物を大切にしないのは好きではありませんが、こういったギャンブルを行う際、仮に対象となる機械や物が壊れてしまったら買い換えれば済みます。もし可能であれば修理で対応が可能なことも大いにあるでしょう。                               しかし競馬は違います。その対象となる「機械=馬」が「壊れれば=怪我すれば」、「買い換えれば済む」という話ではありません。          極論、「怪我をすれば安楽死」となり、「レースで活躍できなければ行く先は殺処分」となるのです。                         これはいくら何でも命を軽んじ過ぎてやいないでしょうか?

 

ここまでの話を踏まえ、私は「競馬」そのものを肯定することは出来ません。しかし、「競馬自体を'今すぐ'無くしてしまえばいい」とも思えません。何故なら、既に「競馬」はこの世界に存在してしまっており、この業界に携わり生計を建てられている方々も多く存在しているからです。             ただ、現状の「馬に対する扱い」や「1つの命に対する重みの認識や対応・制度」という部分をより深く・強く意識し、業界ないし組織として変わる必要があると強く感じます。                          

「全ての競走馬として育てられた馬達が、レース結果や怪我云々という事情は一切関係なく、天寿を全う出来るシステムを形成しなくてはならない」のです。

もしそれが出来ないのであれば、「業界自体存在しない方がいい」と個人的には思います。それが、我々人間が「エゴ」で動物の命を生み出し、競走馬として扱うことへの「当然の責任と義務」だと思うからです。

個人的な意見としては、まず馬主となる人間が「この馬を競走馬として育てたい。その中で怪我をしたり、結果を残せなくて引退することも大いに有り得るだろう。しかし、そうなった場合は全ての責任を持って私がこの馬の最期まで大切に育て天寿を全うさせる。その覚悟と資金はある」という人間にしか馬主となる権利を与えない事が最重要だと考えます。またその際、口先だけではなく有言実行してもらうために、「誓約書」を書かせることを絶対のルールとするべきです。                             こういった覚悟と資金力がない人間に、「動物の命を用いたギャンブルに携わる資格はない」と心から思います。そうすれば、まず年間約7000頭というおかしな数の競走馬が生まれてくることもなくなります。より命を大切にし、責任感を持つ馬主だけが参加する競馬業界になるはずです。                      一方で、仮に「それでは競馬業界が破綻してしまう」、「そんなこと出来るわけないだろ!だったらお前がやってみろ!」という意見もあるかもしれません。だとしたらそれは、「それだけの覚悟がなく、競走馬をお金稼ぎの道具としか考えていない馬主がどれだけいるか」ということが分かる1つのキッカケにもなるはずです。                          また馬主だけでなく、JRA側も引退した競走馬の余生を守るための「基金や施設」を作る必要があると考えます。                  「人間のエゴで動物の命を扱おうとしているにもかかわらず、それに対する覚悟や誠意。そして引退後の彼らのケアを視野に入れていない運営方針など言語道断」だと個人的には考えます。

そしてもう1つは、農林水産省JRAの「競走馬の命に対する認識を変える」ということが重要だと考えます。                     JRA農林水産省の下に設立された組織です。そしてその目的は、「競馬の健全な発展をはかって馬の改良増殖、その他畜産の振興に寄与する」というものになっています。                             要は、「馬は産業動物でどちらにせよ増やさなければならない。一方で競馬はギャンブルとして人を集め金を生むことが出来る。だったらそれを利用し、'まずは競走馬に⇒使えない馬は殺処分して馬肉に' というプロセスを作ってしまえば一石二鳥だ」と言っているに他なりません。               極論、「競走馬は産業動物に過ぎない。結果的に金を生み、経済を回すことが出来れば何でもいい。その過程に在る'倫理観や道徳観'などはどうでもいい」という、「’’国としての認識’’が確実にそこに存在している」という証明でもあるのです。                                  この、「1つの命に対して、恐ろしい程の軽視が出来てしまうという感覚」は、人類全体として変えていかなくてはいけないはずです。

                       

まとめの段階に入りたいと思います。                        ここまでは、引退後の「殺処分」という扱いにフォーカスしたお話として進めてきましたが、これは「引退後の扱い」だけが注視されるべきという事ではありません。競走馬として育てられている過程でもある、「調教」に対しても言える事です。

上述しましたが、競走馬にも様々な性格があります。穏やかで優しい子だったり、競いあったり競争するのが嫌いな子もいるはずです。そもそもが競走馬に向いていない馬達が沢山いるのです。                   例え話ですが、「動物と会話が出来たり、動物と正確な意思疎通ができる人間」が存在し、毎年約7000頭の馬達に「君は競走馬になりたい?大変なトレーニングが待ってるよ?」と質問し、「やりたい!」・「やりたくない!」という会話が「人間と馬との間」でなされており、その意思が実際に反映されているのであれば現状は幾分はマシな状態にはなるでしょう。       しかし現実はそうはいきません。                         だとすればそれはつまり、「馬達の性格や意志は完全に無視し、人間の一方的な決めつけ・エゴで強制的に調教している」ということに他なりません。

実際にあった出来事としてこういった事も存在します。             怪我というのはレース中だけではありません。馬達にとってかなりキツいトレーニングを調教師が毎日強いり、その結果、それまで蓄積した疲労で一気にガタが来てしまう。そして骨折や治療不可能な状態になってしまい、最終的には安楽死、という事も幾度と起こっています。               これは逆を返せば、「そういった有無を言わせない調教をしていなければ。馬達を労わったトレーニングをしていれば。極論、競走馬という存在を人間が生み出していなければ。その馬達はもっと長く健康に生きることが出来た」という事です。

「人間が彼らを死に追いやっている完全な加害者」なのです。

「馬達の性格・向き不向き・調教中の馬達の気持ち」を一切無視し、人間側の意志を強制させる。これはもはややっていることは「奴隷を扱う事」と何ら変わりありません。   

人間が人間に対して同じことが出来ますか?               「人間が人間に何かを強制させ、従わせるために鞭を打ち、使えなくなったらその人間を処刑する」。                        出来ませんよね?ですが、恐ろしい事にその対象が「馬=動物」となると出来てしまうのが人間です。                                                          この「命に対する感覚の差」や「命の重みの認識の違い」というものは、本当に恐ろしいものだと個人的には感じます。

「1つの命に対して敬意と誠意を示し責任を取る」。                  そんな当たり前の事を当たり前の感覚として誰もが持ち、そんな人間で溢れる世界に少しずつでも近づいていけることを切に願います。

 

                   

〈身近な環境でさえポイ捨てが無くならない。なら、世界ではもっと・・・。〉というお話。

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こんにちは。リオ / Rioです。

先日は、〈「一般的に認識されている愛の概念」とは、「本当の愛」とはかけ離れている「差別」であるというお話。〉というテーマを基にお話をさせていただきました。

本日は、〈「身近な環境でさえポイ捨てが無くならない。なら、世界ではもっと・・・。」というお話。〉というトピックを基にお話をさせていただければと思います。                                 よろしくお願いいたします。

お願いします4

皆さんはゴミのポイ捨てをしたことがあるでしょうか?または、ゴミがポイ捨てされている現場を見たことがあるでしょうか?                 私はこのゴミのポイ捨てが許せません。というもの、「自分自身が欲しくて・食べたくて購入した物に対して、最後まで責任を持たずそれを放棄し、もう要らなくなった袋や入れ物をゴミ箱でない所に捨てる」、「自分の目の前から消えればそれでいい」と思っていることに他ならないからです。       正直この感覚は私には理解しがたく、「自分の目の前から '要らなくなった物' が無くなった後の、そのゴミはどうなるのか」、「自分の行動の先を見て、その後どういう事が起こり得るのか」という事に「なぜ考えを及ばしてくれないのか?」という純粋な疑問が浮かびます。                              

 

私は小学1年生から中学2年生までボーイスカウトに所属していた経験があります。その中で様々なポランティア活動を経験してきましたが、中でも一番記憶に残っているのは「地域の清掃活動」でした。老人ホーム訪問や、障害者施設訪問、募金活動など他にも様々な活動を行ってきましたが、清掃活動は訪問先の都合やアポイントの必要がなく、いつでも自主的に行えてしまう事からか、活動頻度も多かった気がします。                  その影響というか癖からか、道を歩いていてポイ捨てされているゴミを見つけるとついつい拾ってしまうことが今でもあります。(勿論その時の状況で、ゴミを拾った後に手を洗えない・拾った後それを入れる袋の持ち合わせがない、などの場合は見つけたゴミを拾わないケースもあります) 

ここで現役のボーイスカウトだった時の想い出を1つ。          もしかしたら皆さんも一度は経験があるかもしれませんが、小学校高学年から中学生に上がる前くらいの、「ちょっと大人ぶった様な・悪ぶってみたい様な、少しカッコつけて悪いことをしてみたい感じの時期」という感覚をお分かりなる方もいるでしょうか?                      そんな時期に私の周りでは、コンビニで買って食べたお菓子の袋を道端に捨てたり、ドブに流したりと、そういった行為がある種流行っていた時期がありました。当時の彼らにとっての「悪ぶったカッコいい」みたいな感覚だったのでしょう。                               中学生という「もうこれからは小学生じゃない」といった少し大人になってワクワクする感覚。そして、「ちょっと悪ぶってみたりするのが何となくカッコイイ」みたいな、こういった感覚は私自身十二分に理解できますし、分かる方も少なくはないのではないでしょうか?                 あ、でも私自身はこういったことは一切やっていませんよ?(笑)

私は当時、上述した様な「買い食いして食べ終わったゴミを道端にポイ捨てしてしまうタイプの友人」と遊ぶこともありました。そんな時は私のボーイスカウト魂に火が付くのか、そういった友人達がゴミのポイ捨てをする現場を目撃すると、「アホ!自分で食べたゴミぐらい自分でゴミ箱に捨てろ!」と、道端に落とされたゴミを拾い上げ、彼らの自転車の籠に突っ込み直し、ちゃんとゴミ箱に捨てさせていたという事もありました。               懐かしいですが今これを改めて振り返ってみると、「正義感が強強(ツヨツヨ)のうざいヤツ」みたいな感じがしなくもないですね(汗)。

 

大人になった今ではボーイスカウトに所属していた当時の様な、「広範囲の地域でゴミ拾いを行う」ということは全く出来てはいないのですが、自分の出来る範囲内で定期的にゴミ拾いを行っています。私は週に5日ランニングをしているのですが、自宅周辺の自分が決めた3種類のルートがあり、そのルートを週毎に変えながら1日/5周走っています。1周は約2km弱なので合計8~9km走っていることになるでしょうか。始めの1~4周でルート上に捨てられているゴミを見つけておき、5周目でその見つけておいたゴミを走りながら回収して帰宅するという事をしています。                               ゴミを見つけると、「どうしてこういうことが出来るんだろう・・」という悲しさと虚しさ、そしてちょっとした怒りを感じてしまいます。        ある一時期、「毎回毎回、拾っても拾っても中々ゴミは減ってはくれない。自分だけがこんな事をする意味ってあるのかな・・」と考えてしまったこともありました。しかし結果的に行き着いた答えは、「気付いているのに気付かないふりをしているって嫌だな」という単純な感情でした。          これはゴミ拾いに関してだけの事柄ではなく、世の中全ての出来事に対しても言えることだと思います。「人間関係・嫌な事件・時事問題・人権問題・政治問題・環境問題」、あらゆることに当てはまると思います。       「自分も、'自分が嫌だと感じていたそっち側の人間' になるのか?」とふと考えた時、「そうは絶対になりたくない」と強く思いました。 

ゴミを拾う際、いろいろなゴミがあります。「綺麗」という表現はおかしいかもしれませんが、拾いやすい綺麗なゴミもあれば、思わず「汚いなぁ」と思ってしまう物もあります。雨の降った次の日なら、雨や泥でグチャグチャになったゴミを拾う時もあります。                       しかし1つ言えるのは、「私の手がどれだけ汚れて汚くなろうと、私の手は洗えばすぐに綺麗になる」という事です。石鹸を使えば殺菌もしてくれます。しかし、自然や環境はそうはいきません。誰かが見て見ぬふりをしてしまえばそのゴミはそこに在り続け、結果的に環境を害してしまいます。もしかしたら野良や野生の動物がゴミを食べてしまうかもしれません。それで苦しんでしまうかもしれません。あらゆる悲しい出来事が発生してしまう可能性が生まれてしまいます。                              だとしたら、「決して範囲や規模は大きくはないけれど、自分に出来ることをしよう。ボーイスカウトをやっていたという経験もこの感覚や価値観を得るためだったのかもしれない」と思えたのです。

 

ここまで前振りが長くなってしまいましたが、ここで本日のトピックの本題に移らせてください。                          私は上述した様に、週に5日ランニングをしています。おそらくこれを読まれている方で、「走りながらゴミ拾いをしていると言っていたけれど、せいぜい5日の内2日くらいがゴミを拾っている日なんだろうな。他の日はゴミを拾ったばかりで道は綺麗になっているのだろう」とお思いになる方もいらっしゃるかもしれません。しかし実際は、「ランニングする日は毎回何かしらのゴミを拾っています」。                             つまりは、「ゴミをいくら拾っても拾っても、次の日には別のゴミを誰かが捨ており、それがずっと繰り返されている」という現実があるのです。            私が住んでいるエリアは物凄く栄えているエリアでもなければ逆に物凄く田舎という訳でもありません。ごく一般的な住宅街といった感じだと思うのですが、そんなエリアでさえ、更にはたった1km程の範囲内で起こっている事なのに、「拾っても拾ってもゴミが減らない」という事実があるのです。   付け加えて言うならば、ゴミが多い時は「 '一般的なコンビニの袋のサイズの袋' に一杯のゴミが入る」時もあります。

この「同じルートを走りながらも、綺麗にした次の日にはまた新たなゴミが道端に落ちている」という事実は本当に深刻です。             これがそのルートにおいて「同じ人」がやっていることなのか、それとも「別の人」がやっていることなのかは分かりません。しかし、このたった1日という短期間で無くなったはずのゴミが増えているという事実は、「もし私がゴミを拾っていなかったら、1週間・1ケ月という期間で考えた場合、どれ程のゴミが道端に捨てられることになってしまうのか」、はたまた「その結果、どれ程環境が傷つけられてしまう事に繋がるのか」という事を考えさせられざるを得ません。本当に悲しくなります。                         「何故こんなにも自分の都合でしか物事を考えられず、行動できない人間がいるのか」と、とても虚しい気持ちにもなってしまいます。       

悲しい事に、中には「どう考えてもおかしい」と考えさせられてしまう様なゴミの捨て方をする人もいます。                                   コンビニを訪れると入口付近に「ゴミ箱」を用意してくれているコンビニもあります。コンビニだけに限ったことではなく、自動販売機のすぐ近くに「空き缶入れ」を用意してくれている自販機もあります。喫煙所も然りです。(私は田舎県なので、こういったコンビニ側でゴミ箱を用意してくれているというのは日常的な光景だったのですが、首都圏エリアだったりするとそうではない様ですね。初めて知った時は衝撃的でした。)                           そんなコンビニや自販機側の好意で、「ゴミはここに捨ててくださいね」と言ってくださっているにもかかわらず、同じコンビニの敷地内のわざわざ端っこだったり、中々人の目が届かない様な「どうしてわざわざこんなに人が見つけにくい場所に捨てたの!?」と思わされてしまう様な場所に捨てられているゴミも多くあります。                          私自身、見つける機会の多い「タバコの吸い殻」に関しても、「100歩譲って歩きタバコをするなら携帯灰皿を持って歩く」、「車で吸っているなら責任を持って自分の車の灰皿に吸い殻を捨てる」など、人として最低限守るべきルールがあると思います。しかし、それが毎日毎日、道端や車道に多く捨てられ続けているのです。                          何事においても、「誰しもが自分の行動に伴った責任を持ち、それを実際に行動に移せばこんなことは起こらない」のでしょうが、どうもそうはいかないみたいです。

 

ここまでお話してきたのは、私の実体験に基づいた「私の住んでいるエリアのみでのお話」です。ではこれを、「町全体・市全体・県全体・日本全体・別の国・世界全体」といった規模で考えていったらどうなるでしょうか?                                毎日どれ程多くのゴミが、世界には「ゴミ箱ではない不適切な場所に捨てられ続け、増え続け、それが我々の日常の一部となってしまっているのか」が想像できると思います。                            これらは予期しない不可抗力で発生した出来事ではありません。     「一部の人間が自分たちの意志で、意図的に行っている結果」です。 

今回のトピックは「道端のゴミ拾い」という私自身の実体験に基づいたお話となっていますが、勿論「道端だけ」に限った話ではありません。    「森・川・海」など様々な自然を汚し、生態系を壊し、そこに生きる動物達や自然を苦しめているという現実があります。人間の身勝手なゴミの投棄により、被害を受けてしまった動物や自然の映像を見たことがある方も少なくはないのではないでしょうか?                             「個人」で捨てるポイ捨だけが問題なのではありません。産業廃棄物の不法投棄など様々な問題も含め、「個人」・「企業」・「社会全体」の全てが「1つの正しい方向」に目を向ける必要性があるのです。            これらは決して「他人事」で終わらせていいお話ではありません。   

 

いつから我々人間は、「自分達の幸せ・利益・生活のしやすさ」といった「己の我欲」だけを優先した生き物になってしまったのでしょうか?      我が物顔で他種族の生物や地球そのものを傷つけてしまっても、何も感じない「無神経な生き物」になってしまったのでしょうか?                               今一度、「人間としての在り方」、「地球は決して人間だけの所有物ではない」という観点に立ち返るということ。そして、「それを踏まえた上でどういった生き方をして行くべきか」という事を、「人間全体・社会全体」として真摯に考える必要のある時期に来ているのではないか、と個人的には強く感じます。

                     

「一般的に認識されている愛の概念」とは、「本当の愛」とはかけ離れている「差別」であるというお話。

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こんにちは。リオ / Rioです。

先日は、〈「本質的には同じ出来事に近くとも、自分の立ち位置(観点)が変われば違う感覚や選択肢が生まれる」というお話。〉というテーマを基にお話をさせていただきました。

前回のトピックではワンピースのあるワンシーンについてお話をさせていただいたのですが、そのシーンとまた切っても切り離せない様な、これまた深い言葉をふと思い出したので、今回はその言葉についてお話させていただけたらと思います。                             よろしくお願いいたします。

お願いします3

これまたとある漫画からのセリフになってしまうのですが、どうかご容赦を(笑)。                              しかしこう考えると、漫画から考えさせられる事柄や言葉というものは本当に多いものですね。こういった刺激を受けて生きていく事と、全く受けずに生きていく事とでは、「対:人生」ないし「対:人」という観点から見ても、自身の価値観や人に対する接し方も大いに変わってくる程、目には見えずとも大きな刺激を貰っているのかもしれません。

 

ではお話を進めていきましょう。                      今回扱う作品は「ヴィンランド・サガ」という漫画になります。この作品は月刊アフタヌーンにて連載されている作品で、物語の舞台は11世紀初頭の北ヨーロッパエリアでのお話となります。時はまさにヴァイキング達の覇権争いが行われている時代です。ヴァイキングとは、つまりは海賊行為を行う者達のことで、村を襲い、食料を奪い、人を襲い、また一国の傭兵として雇われ戦っていたりもしました。いずれにせよ野蛮な行為が横行していた時代となります。

今回お話したい内容では重要な人物が2人います。              1人はクヌートというこの物語の主要人物です。彼は一国の王子なのですが、幼少期から宮廷での政争を目の当たりにしてきたことや、父から抑圧されていたことから、非常に臆病で争いを好まない性格の人物です。またキリスト教を重んじていたことから、神を「救いをくれる 'はず' の存在」として捉えています。                             そしてもう一人がヴィリバルドというキリスト教の修道士です。常に「愛とは何か」を追い求めている人物となります。

このクヌート王子は実父の謀略により戦地に送られるも大敗し、捕虜にされてしまいます(実父は意図的にクヌートを戦地に追いやり殺そうとしていました)。それでも何とか逃げ、生き延びようとするのですが、戦う事を恐れ・避け、結果的に自分のお付きで唯一心を開いていたラグナルという人物を失い絶望に暮れてしまいます。(このラグナルは、敵からクヌート王子を何としても逃がすため、逃げる途中でたまたま立ち寄り、自分達に良くしてくれた村人達を利用し、意図的に追手の犠牲にしてしまいます)            そんな時、ヴィリバルド修道士との問答によって、「愛の本質と人間の不完全さ」を悟ります。この時からそれまでの臆病な性格から一変し、「自らが王となり、神に代わって自らの手で地上に理想郷を生み出そう」という決意を胸にします。「神などあてにならない。これ程酷く悲しいことが世界には起こり続けているのに、手を差し伸べ救う事すらしてくれない。ならば自分自身の手で誰もが救われる理想郷を作ってやる」という心情が生まれました。

そしてこのクヌート王子がこの様な決断に至った、「ヴィリバルド修道士との会話」にこそ今回お伝えしたいセリフが含まれています。             少し長くなりますが、要点を残しつつ会話の一部をご紹介します。時系列的にはラグナルが死んでしまった後での会話となります。

 

クヌート:「もうこの地上に私を愛してくれる者はいなくなった」
ヴィリバルド:「それは大いなる悟りです。だが惜しい。ラグナル殿のあなたへの思いは愛ですか?彼はあなたのために62人の善良な村人を見殺しにした。殿下、愛とは何ですか?」

(中略)

クヌート:「ならば親が子を・・夫婦が互いを・・ラグナルが私を大切に思う気持ちは一体なんだ?」

ヴィリバルド:「差別です。王にへつらい奴隷に鞭打つことと大して変わりありません。ラグナル殿にとって王子殿下は他の誰よりも大切な人だったのです。おそらく彼自身の命よりも・・。彼はあなた1人の安全のために62人の村人を見殺しにした。差別です」

(中略)

クヌート:「・・神は・・・こうしている今も我々のことを見ていらっしゃ    るのだろうな・・・。友を失い、親と子が殺し合う。そんな様の全てを天空の高みから見下ろしておられるのだろう。許せぬ・・・。私はこの地上に楽土を作るぞ、平和で豊かな、生き苦しむ者達のための理想郷を・・。私の代では成し得ぬかもしれぬ。それでも最初の一歩を私が踏み出すのだ。神はきっと私を愛で御許へ召そうとするだろう。その時私は神にこう言うのだ。'もはや天の国も試練も要らぬ。我々の楽園は地上にある' とな」

 

この「愛とは差別」という言葉を聞いた時、私は唖然としました。最初は一体何を言っているのか全く理解できず、頭が追い付きませんでした。    実質的にはヴィリバルド修道士は「愛=差別」とは言ってはいません。しかし、上述したクヌート王子のセリフにあった様に、「親が子を・・夫婦が互いを・・ラグナルが私を大切に思う気持ち」というものこそを、私は「愛」であるとずっと認識していました。何の疑いもなく。               「自分にとって大切な人を想い、慈しみ、愛しく想う心」、それこそが「愛」だと。   

しかしこのヴィリバルド修道士の言葉を聞き、「はっ」とさせられました。自分がこれまで何の疑いもなく信じていた「愛」は、「'本当の意味での愛' ではなかった」のです。                                   一般的に愛とは、「この人の為なら何でも出来る。煩わしささえ感じない。何より自分自身より大切で、無償の愛を無意識に提供してしまうこと」という様に捉えられていると思います。                  しかし、それは突き詰めれば「自分にとって特別な人に対してのみ」という、「限定条件」が伴っているのです。                  

分かりやすく言うとこんな感じです。                      「あなたには大切な両親・パートナー・子供・親友がおり、それらの人達に対して '何でもしてあげたいし、してあげられる。それを何も苦だとは思わないし感じない。そう出来ることが本当に心から幸せ'」と感じているとします。これは一般的には誰もが理解できる、「愛というイメージ」から連想できる感情だと思います。                             しかし、では「全く知らない赤の他人に対し、全く同じレベルでの '上述した愛' を持って、同じ接し方が出来るでしょうか?同レベルの愛を提供できるでしょうか?」                          おそらく多くの人が「出来ない」と答えると思います。         これをヴィリバルド修道士は「差別」と呼んでいます。これまでは一見、「これこそが愛だ」と信じて疑わなかった「愛という概念」、「愛という価値観」が一瞬にして崩れるのではないでしょうか?           このヴィリバルド修道士の言葉に倣うなら、これまで「これが愛だ」と一般的な概念として捉えられていたものは、ある種「真実の愛」とは ''かなりかけ離れたもの'' だったのです。

勿論、我が子に対する愛や、両親、子供、親友に対する「想い・気持ち・愛」の全てが「偽物」だと言っているわけではありません。それらの気持ちは何一つ偽りのない「本物の愛」です。                しかしそれは同時に、明らかに「限定された愛」でもあり、「その '対象が限定されている愛' を本当の '深い意味での愛' と呼んでいいのだろうか?」という観点で考えると、「そうは呼べない」というのが私個人の考えです。

 

(*)これからお話する例えとして「ボランティア」という活動を扱いますが、これは決してボランティアをされている方々に向けて言葉を発しているわけではありません。あくまで「本当の・真実の愛」という観点から、分かりやすく理解していただくための例えとして用いているだけですので、ご理解いただけますと幸いです。また、「利他的な感覚を持つ人間」と、「利己的な感覚を持つ人間」とで比較したい部分でもあるため、よりイメージしやすい例えとして「ボランティア」という活動を扱っております。                              大前提としてボランティア自体とても素敵なことだと私は考えています。 自分自身が何かの対価を得るための利己的な行動ではなく、利他的な心を持った素晴らしい感覚を持っていると思います。              自分自身の事をどうこう言うつもりは全くありませんが、私は幼少期からボーイスカウトに所属し、様々なボランティア活動を経験してきました。最近では簡易なものになってしまいますが、自宅から半径1キロ弱程のみの範囲内でゴミ拾いを定期的に行っています。本当に些細なことしか出来ていませんが・・・。                                世界の全人口から考えると、どんな形であれボランティアに注力されている方々の割合は少ないでしょうし、そういった活動に注力されている方々は本当に素晴らしい心をお持ちであると感じます。     

        

では引き続き例え話に移りましょう。                 例えばですが、様々なボランティア活動が世界にはあると思います。その活動を通して、「人に・社会に・環境に・○○という問題」に対し、「貢献したい・助けたい・解決したい」、という気持ちは嘘偽りのない本物だと思います。しかし、では上述した様に、「自分の両親・パートナー・子供・親友」に向ける気持ちと全く同等の愛を持ちながら、ボランティア活動の対象となる「人間・動物・自然・事柄」に愛を向けることが出来ているでしょうか?                                大前提としてですが、勿論ボランティア活動をされてらっしゃる方で、まさに「全身全霊を懸け、自分の命を懸けて活動に取り組まれている方」もいらっしゃると思います。ですが、それ程の覚悟と決意を持って取り組まれている方の割合は、全体の総数から見てしまうと決して多いとは言えないのではないでしょうか。

極端な話ではありますが、例えば「とあるボランティア活動において、活動の対象となる人が命の危険にさらされている。同時に、自分の大切な人も全く同じ状況下で命の危険にさらされている。どちらか一人を優先しないといけない」となった場合、優先されるのは明らかに後者となるでしょう。                     はたまた、自分は「○○という分野・事柄を扱っているボランティア」に注力しているが、その注力している以外の分野に関しては「関心度・熱量」が落ちてしまう、こういった場合もあると思います。           ここでも、自分の興味・関心が向けられている分野とそうでない分野とで、そこに向けられる熱量が異なる「差」というものが生まれます。                     勿論これはボランティアだけにいえることではなく、「世の中の全ての事柄」に対して言えることです。                       現実として、「ボランティアをする・したい」という利他的な素晴らしい心を持った方々でさえ、こういった「差」「向ける熱量の違い」という現象が生まれてしまいます。だとしたら、そんな彼らとは真逆の「利己的な心を持つ人々」にとっては、このヴィリバルド修道士の言う「差別」という感覚はより顕著、且つ当たり前の事であり、「本当の意味での他者を思いやる心=愛」とは一番遠い場所にいる存在という事になるでしょう。

 

私達も日々の中で様々なニュースを目にしたり、耳にすると思います。例えばその中で殺人事件があった時、皆さんはそれをどう感じられるでしょうか?                                おそらく「自分と全く関係のない人間が殺された」というニュースを知っても、「あ、そうなんだ」くらいに感じる方もいれば、「うわぁ・・嫌な事件だなぁ・・」と感じる方もいるでしょう。 しかし、そこには確実に「'自分の大切な人が殺された時に生まれるであろう感情' とは全くの別物の、 '他人事の感覚' 」が伴っているはずです。                         勿論これは、「物理的に傷つけた・傷つけられた」という事柄だけに言えることではありません。「心への暴力・見えない傷・飢餓・虐待・貧困・その他諸々の全て」に対して、等しく同じことが言えます。

これは「そう感じることは酷いことだ」、「悪だ」、などと言いたいわけではありません。私自身もそういった出来事に対して他人事の様に感じてしまいますし、それがある種普通の感覚だとも思います。しかし同時にそう感じてしまう自分が「悲しい人間」にも思えます。                 もし、「殺されたり、苦しめられている被害者が自分にとって大切な人」だった場合、他人事には一切感じられないはずです。それを見ず知らずの人間が他人事の様な口ぶりで、「自分とは関係ない事だな。あはは」とでも言おうものなら、心からの怒りと憎しみの感情を抱く事でしょう。        そう考えると究極的には、悲しいかな「人間は基本的に自分の関心があったり感情移入している人や事柄は大切にし、それを傷つけられたら怒るのに、自分の関心の外側にある物事に対しては一切の興味・関心を示さない自分勝手な生き物」という言い方も出来てしまうのではないでしょうか。

「 '好き' の反対は嫌いではなく、'無関心' 」という言葉がありますが、「世界中の至る所で毎日の様に、当たり前の様に起こり続けているのがまさにこの現象」です。                               世界のどこかで飢餓や貧困に苦しんでいる人がいても。同じ国内でさえ虐待や殺人事件が起きていても。それらは多くの人にとっての「他人事」となるでしょう。    

                         

そこでふと思いました。                         「もし世界の誰しもが、全くの赤の他人の '痛み' を知った時、心から悲しみ、憂い、その痛みを心から皆で分かち合おうとする様な感覚を持つ人達で溢れる世界だったらどうなるんだろう?」                  と。

いきなりこんなことを言い出すと「何か怪しい宗教でもやっているのか?」、「頭大丈夫か?」とお思いになられる方も中にはいらっしゃるかもしれませんが、私は変な宗教はやっていませんし、結構真面目です。      

世界がどれ程より良い方向に進むかイメージできないでしょうか?

誰もが、自分の家族だとか、恋人だとか、親友だとか、一切関係なく、「同じ1つの命が亡くなった時・痛めつけられた時・痛めつけられている時、そのことを心から悲しみ痛みを分かち合い、救おうとする行動を起こす」、「命を尊いものだと想い憂う」、こんな感覚を誰もが持っている世界。              勿論これは人間だけに限ったことではなく、究極的には動物や植物、自然に対してもこの様な気持ちを持つことが「誰しもの当たり前」になる日が来るならば、世界はどれ程愛に溢れ、争いや傷つけ合いのない、素晴らしい世界になるでしょうか?

もしこんな世界が成り立つ時が来てくれたなら、「自分さえ良ければいい」、「他人を蹴落としてでも幸せになりたい」、「自分達が幸せになるためなら他の動物の命を軽んじ、自然を壊すことをも厭わない」、などといった、「利己的な考え・価値観・精神性」は世界から消えるのではないでしょうか。

このヴィリバルド修道士が言うような「差別」という概念が無く、「自分の大切な存在に向ける愛」と同等の愛を「万物」に向けることが出来る精神性を誰もが持つ世界になったならば、この世界は「愛と平和」で満ち溢れるはずだと感じます。              

「本質的には同じ出来事に近くとも、自分の立ち位置(観点)が変われば違う感覚や選択肢が生まれる」というお話。

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こんにちは。リオ / Rioです。

先日は、「〈アメフト漫画から学んだこと〉かつては嫌いだった ''とあるセリフ'' が、時が経ち別の視点をくれたお話」というテーマを基にお話をさせていただきました。

本日は同じ漫画繋がりで、「ワンピース」という漫画の ’あるセリフ' に関して、「本質的には同じ出来事に近くとも、自分の立ち位置(観点)が変われば違う感覚や選択肢が生まれる」と感じたことについてお話をさせていただけたらと思います。                             よろしくお願いいたします。

お願いします2

「ワンピース」という作品は週刊少年ジャンプで連載されている人気漫画です。私もこの作品が好きで、現在も話を追っています。コミック派です。    長期連載の作品であるためかなりの長編になっているのですが、その中でも「ドレスローザ編」というお話の中で登場する 'ある国の王様が言ったセリフ' に関して、「これってその視点が国家であるか、個人であるかで感覚が異なるのではないか?」と感じたものがあり、それをご紹介したいと思います。                                これはあくまでこのワンピースという作品に対してモノ申すとかではなく、「そのセリフそのものを、このワンピースという世界から切り離した '単体の言葉' として見た場合でも」という前提でのお話になります。

 

では始めていきましょう。                       そのセリフが登場するまでの背景を説明しますと、ドレスローザという国があり、この国が悪い海賊に突如乗っ取られてしまった所から始まります。国を乗っ取られる前までのその国の国王は、国民から絶大な信頼を得ていた王様でした。また、「戦争をしない王」として知られ、「戦争をしないためであれば他国の王を睨み殺す」くらいの信念を持っていた人物となります。        しかし、悪い海賊に突如襲われ、騙され、王の座から引き釣り降ろされてしまうのです。                              その後、主人公達がドレスローザに現れ国を救う事になるのですが、その過程で敵の主要キャラクターの1人が国王にこう語りかけるシーンがあります。

         

「貴様の様な平和主義者では国は守れなかった」                 それに対し王はこう返します。                       「だが、人間であるための努力をした。殺人を犯さなければ生きてはいかんと言うのなら、私は進んで死を選ぶ。殺戮国家に未来などない」

 

この敵のセリフの意図としては、「国を完全に乗っ取られる前に武力を選び、我々と戦うことを選択していれば結果はほんの少しばかりでも変わったかもしれない。しかし、絶対に血は流させないという自身の信念を貫いた結果、この国は我々に乗っ取られこの有り様になっている。お前の様な平和思想だけでは国は守れない。お前のせいでこの国は終わったんだ。」という意図が込められていると私は解釈しています。                     一方で、この王のセリフも理解できます。               「人を傷つけ、痛めつけ、殺すことを強いられるのなら、死んだ方がマシだ。人を殺めてしまったら '人' でなくなってしまう。」              こういうことでしょう。                         これはあくまで個人的なイメージですが、このセリフは「日本人らしい、'他者のために自分が犠牲になる' といった、美しい心そのもの」を体現している様な言葉にも聞こえます。          

この言葉を初めて聞いた時は、「この国王の言葉は物凄く理解できるし、人はそもそもそう在るべきだろう。もし世界中の全ての人間が心からこの様な考えや思想を持っている人達で溢れているのなら、きっと世界には争い自体生まれないのだろうな。」と感じたものです。                 しかし、何度かこの章を読み返しているうちに、「あれ・・?でも・・・」という感覚を持ち始めました。                                「でも待てよ?これは自分がドレスローザ国民だったらという、'自分が国の一員' という視点で感情移入して見ている故の感想だ。なら自分が '国の一員' という視点を外して考えるなら?」                       ふとそう思いました。

そして考えた結果、その感覚は上述したものとは明らかに異なりました。

ここで重要なのは、これは「 '国' という単位」での観点から用いられているセリフという事です。「 '自国そのもの' という単位」でこのセリフを捉えた場合、一見とても素敵な言葉に聞こえます。もし我々の現実世界でも武力を用いなければならず、「自国 vs 他国」、もしくは「自国 vs 何かしらの勢力」という構図があったとして、「自分達が戦い、相手を傷つけ、最悪の場合人を殺めてしまう事になるならば、戦うという選択肢は選びたくない」という気持ちを抱く人はとても多いのではないでしょうか?

しかし一方で、これが「個人」という単位・観点になった場合はどうでしょうか?                                 一瞬にしてそれまでの見方や感覚が変わる方も多いと思います。      おそらく「個人」という観点に変わった瞬間、「僕は・私は、 '戦う' 」という選択肢を取る方が多くなるのではないでしょうか。

分かりやすい例を挙げるとするならばこんな感じです。

「AさんとBさんがいます。Aさんには家族がおり、妻と子供2人の4人家族で、1つ屋根の下幸せな生活を送っています。そんなAさんの隣の家に住んでいるBさんは、気性が荒い性格でよく怒鳴り声が聞こえてきたり、刃物や銃を所持しているなんて噂を耳にします。」

こんな時Aさんはどういった行動を取るでしょうか? あ、「引っ越す」という選択は無しでお願いします(笑)                  おそらくはまず、「自分の家に危害が及ぶ場合を想定し、Bさんから身を守れる何かしらの道具を自宅に備える」という行動を起こすのではないでしょうか。これは、「家族を・自分を最低限守るための防衛手段」です。当たり前の行動と言えるでしょう。実際に「戦う事になる・ならない」以前に、備えるための行動を起こすはずです。

そして次に、もし危険人物扱いされているBさんがいきなり刃物や銃を持ってAさんの家に上がり込み、襲って来たとしたらどうするでしょうか?                                ほぼ確実にAさんは、「家族を・自分を守るために戦う」という選択肢を取ると思います。                             もっと言うのであれば、もしBさんが明らかな殺意を持ってAさん家を襲っているのであればどうでしょうか?                    そうなった場合、Aさん側もそれ相応の覚悟を持って自己防衛を行い、その中で反撃を強いられることもあり得るでしょう。最悪の場合、「自分はどうなってもいいから家族だけは守る!」、「相手はこちらを本気で殺しに来ている・・・。ならばこちらも刺し違える覚悟をしなければ大切な家族は守れない・・!」という決断も辞さないのではないでしょうか。

これはA家の大黒柱であるお父さんのAさん視点でのお話ですが、守るために戦うという選択肢を取るか否かを決めることが出来るのはAさんだけに限った話ではありません。Aさんの奥さんだって、お子さんだって、その選択肢を選ぶ権利があります。                           奥さんなら、「ウチの旦那と子供達を守るために戦わなきゃ・・!」と武器を手に取ることもあるでしょう。                     子供達も、「お父さんとお母さんを守らなきゃ・・!」と、勇気を奮い立たせて、震えながらも武器を手に取る選択をするかもしれません。                               

この状況下において、これらAさん側の人達の選択肢に何か間違いがあると感じるでしょうか?個人的には何も間違っていないと感じますし、「自分にとって大切な人を守ろうとする」、これは人間というより生物として誰もが持つ本能に近いのではないでしょうか。                    仮に結果として、Aさん家の誰かしらがBさんを殺めてしまったとしても、それを誰が責められるでしょうか?

 

ここで先程ご紹介した、「だが、人間であるための努力をした。殺人を犯さなければ生きてはいかんと言うのなら、私は進んで死を選ぶ。殺戮国家に未来などない」というセリフを思い出してください。              「自分が国の一員である」という視点を通してであれば、あれだけ素敵な言葉と感じられていたはずが、「家族」という単位の視点で考えると全く感じ方が違う事に気付くはずです。                           このセリフを上述した「Aさん・Bさん」のシチューエーションにあてはめ、「国家=Aさん家・悪い海賊=Bさん」として考えた場合、このセリフをAさんに対して言う事ができるでしょうか?私には出来ません。仮に自己防衛を行い、Bさんを死に至らしめる結果になってしまったとしても、ここで「戦わない」と選択することの方が私には愚かに感じてしまいます。

更には、Bさんに襲われているAさんはこんなことを言うでしょうか?       「殺人を犯さなければ生きてはいかんと言うのなら、私は進んで死を選ぶ。殺戮家族に未来はない。家族を守るより、誰も殺さず人のまま死ぬことの方が大切だ。さぁ妻と子供達よ、この状況を受け入れ死を選ぼう。戦ってBさんを殺めてしまうくらいなら戦わず、反撃せず、'人'のまま死ぬためにこの状況を受け入れよう」

もしこんなことを言う父親がいたら父親失格だと個人的には思います。

これが、「自分が国の一部であると考える 'マクロ的な視点' での感じ方」と「自分を個人として考える 'ミクロ的な視点' での感じ方」の「大きな違いと違和感」です。                           「本質的な状況」は同じなはずなのにです。

 

上記の例は「Aさんに守るべき家族がいる」というシチュエーションでの例となりましたが、このAさんが仮に「独り身」だったとしても取る選択肢は変わらないのではないでしょうか。                              いきなり襲われ、自分が命の危機に曝されている状況下になってしまったとしても、「自分自身の命を守るために '戦わない' 」という選択をする人は中々いないのではないでしょうか。                              大前提としてですが、例えば「街中でいきなりちょっとした暴力を振るわれた。ここを全速力で走って逃げればもう二度と会うこともないし絡まれることもない。'この時だけ' 逃げ切れればいい」という状況下では勿論話は変わります。                                 決して、「程度など関係なく、自分が何かしら危ない目に遭ったら殺意を持って反撃する必要がある」と言っているわけでは勿論ありません。こういった場合は隙をついて声を上げて即座に逃げ、近くの交番や何かしらの建物に入り助けを求めるのが一番だと思いますし、反撃するにしても「殺意を持って反撃する」というレベルには至らないはずです。                   ここで最も重要なのは、「自分自身が本当に命の危機に曝されてしまった時」また、「自分や大切な人を守るためにはどうしても命を懸けて戦わざるを得ない状況下」になった場合でのお話です。

(*)中には、「格闘技経験が長かったり、自己防衛手段に長けている方で、どんな状況下においても相手の命までは取らず、脅威を排除できる」という方もいらっしゃるでしょうが、決して多くはないでしょう。

 

ここまで長いお話をしてしまいましたが、この「起こっている出来事の '本質' は変わらないはずなのに、自分がマクロ的な視点でそのシチュエーションを捉えるか、ミクロ的な視点でそのシチュエーションを捉えるかで、選択肢や思考に明らかな違い生まれる」ということが分かったと思います。       しかし、なぜこういった事が我々の心理面に起こるのかは私は未だに分かりません。そこそこ昔からの疑問なのですが・・・(汗)                                 しかしその中でも個人的に考えた結論としては、「どれくらい大きな集団意識の中で、自分自身をその一員として捉えているかどうか」、「その集団意識が大きくなれば大きくなる程、恐怖感は小さくなっていくのではないか」という事でした。簡単に言ってしまうと、「赤信号、皆で渡れば怖くない」といった様な感じです。                                勿論これが合っているのか間違っているのか、当たらずとも遠からずなのかは分かりません。                            いつかこの疑問の答えに行き着ける様な巡り合わせがあればと思っています。

              

最期に、どちらかというと「自分の命が懸かっている際には戦うべきだ」といった様な意見をここまで多く述べて来ておきながら恐縮ではあるのですが、1つだけまた違った観点からの考えをお伝えさせていただき、締めくくらせてもらえたらと思います。

「 '自分にとって大切な人を守ろうとする' 、これは人間というより生物として誰もが持つ本能に近いのではないか」と上述しましたが、では「王様のセリフにあるマクロ的な観点」で見た際にはこの '本能' が機能しておらず、「生物としての在るべき姿ではない、かけ離れた姿になっている」という事になるのでしょうか?                                 そう問われると、そういう訳でもないと個人的には感じます。      「生物として争いや殺戮を犯すのではなく、それすらせず死を受け入れる」、これもまた私自身が理解できる精神性とも感じています。        「本能のままに守り、戦う」ことが正しいのか、「戦わず死を受け入れる」ことが正しいのか、究極的にはどちらも間違ってはいないし、どちらも正しくなかったりするのかもしれません。今の私にはその答えは分かりません。

人間はあらゆる生物の中でも非常に心が豊かな生き物です。生きていく中で幾つもの心と心の触れ合いを経て、単純な「感情の経験」だけでなく「精神性」もまた培い、育んでいくことが出来る稀有な生き物だと私は考えています。                                そういう意味では、上記のマクロ的な観点とミクロ的な観点との間で生まれる「感覚の違い」、「選択肢の違い」、「どちらが正しい、間違っている」などというものは、「より高い精神性を持ち合わせた '人間' 」から見た場合、あまりにも稚拙で、同時に私が想像し得ない全く別の答えを導き出してくれるのかもしれません。                           私の精神性がまだまだ未熟であるが故に、ミクロ的な観点では「反撃し戦う事を選んでしまう」のかもしれません。

皆さんは今回のトピックについてどう感じられますか?          是非色々な意見をお聞きしてみたいです。

 

〈アメフト漫画から学んだこと〉 かつては嫌いだった「とあるセリフ」が、時が経ち別の視点をくれたお話。

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こんにちは。リオ / Rioです。

先日は、〈「流れ星」と「人生における巡り合わせ」〉というテーマを基にお話をさせていただきました。

本日は私の好きな漫画に出てくる「とあるセリフ」があるのですが、「かつては嫌いだったセリフが、様々な経験を経て大人になって聞くと、また形を変えて新たな視点をくれた」というトピックに基づいてお話させていただければと思います。                              よろしくお願いいたします。

お願いします.

私の好きな漫画で「アイシールド21」という漫画があります。この物語は、「ひ弱でイジメられっ子だった主人公のセナという少年が、高校入学を機にアメリカンフットボールを始める」という所から始まります。しかし、私が今回のトピックで扱いたいのは主人公のセリフではなく、主人公が所属するチームのライバルチームの選手のセリフです。

このライバルチームのエース選手に「通称:キッド」というキャラクターがいるのですが、その選手の口癖で「良すぎるとロクなことがねぇ」というセリフがあります。この言葉はそのシチューエーション毎によって少し意味合いが変わるのですが、基本的には「期待するとロクなことがない」、「買いかぶられ過ぎるとロクなことがない」といった様な、「良い事を期待し過ぎると・期待され過ぎると、結果としてロクなことが起こらない」というニュアンスで頻繁に使われていた言葉になります。今思えばこれを高校生が言うわけですからかなり斜に構えていますよね。

私はアイシールド21という漫画が大好きでしたし、このキッドというキャラクターも割と好きでした。しかし、この上述したセリフだけは嫌いでした。というのも、私はネガティブな言葉が嫌いだったからです。当時私は学生で、逆にポジティブな言葉が大好きでした。あ、特に今で言う「意識高い系」だったとかではないですよ(汗+笑)。                    なぜなら、ポジティブな言葉を耳にしているのと、ネガティブな言葉を耳にしているとのでは気分が変わります。もっと言えば、例えば自分が見据えている目標や夢があり、そこに突き進もうとしている時に「ネガティブな言葉と共に夢に向かおう」とは多くの人は思わないでしょう。単純にそんな感じです。                                何より、私はどちらかというと元々がポジティブな思考の人間だったので、それと真逆のセリフを言われることで自分の思考を阻害されている様な気分になり、それが嫌だったのかもしれません。

そういった訳で、当時はよく「何でこのキッドはこんなネガティブな事ばかり言うんだ・・・。自分が良い状況下に居るならそれを純粋に受け入れればいいだけなのに!なんでそこでネガティブになるんだよ・・」、「そもそも言ってることがよく分からん!現実に良い事が起こっているなら、そのまま期待し続けろよ・・・!」なんてことをよく思っていたことを今でも覚えています。                              しかし時が経ち、社会人になってからこのセリフをふと思い出したことがあったのですが、そこからこのセリフの捉え方が変わりました。

                  

当時、私は「自分のやりたいことを仕事にしたい」という想いから、最終的に自分の求める業界・業種の職に就くことが出来ました。「どうせ生きるためにはお金を稼いで働いて生きなければならないなら、人生の大部分を占めると言われる仕事の時間を自分がやりたいと思えることに時間を割いていた方がよっぽど有意義だ」と感じていたからでした。大学に行きはしたのですが、学んだ分野は「何となく」で選んだ学部だったこともあり、大学卒業後は留学し、それまでとは全く別の方向性に向け歩み始めました。            進路変更を経て、その新たに進んだ道の業界に幸いにも就職することができ、「よし!これから頑張るぞ!」と期待に胸を膨らませていたのですが、そんなワクワクも束の間、業界ゆえの洗礼を受けることになります。           私が居たのはデザイン関係だったのですが、其処は所謂「ブラック」と言われる要素がふんだんに詰め込まれた環境下でした。最終的には退職し、「自分のやりたいことをやる以前に、そもそもの大前提となる労働環境が全く整っていないなんて組織として破綻している・・」、「自分のやりたいことを仕事にしたいと目標を定め此処まで来たが、それを叶えるためには自分自身をどれ程犠牲にしなければならないのだろう・・・」と面食らってしまい、とても悩んでしまいました。                            私はこれまでは何かしらの目標が常にあり、それに真っ直ぐに突き進んできたタイプの人間であったこと。また、人や社会に騙されるという経験がそれまで一切なかったことから、「目標は叶えたけれど待っていた現実はこれだった・・・。こんな環境に自分を犠牲にしたまま居続ける必要があるなら、もうこんな場所には居たくない・・。自分はこれからどうすればいいんだろう・・」と、目標がなくなり目の前が真っ白になってしまいました。                         その後、転職活動をするも全く上手くいかず、精神的にかなり病んでしまった時期を迎えることになります。

 

そんな精神的にとても辛く、落ち込んでいた時期に何故かふと上述したキッドのセリフを思い出しました。                     「期待し過ぎるとロクなことがねぇ」という言葉です。          私はそれまで何事においても「期待しかしない」性格でした。実際にその期待に裏切られたことはなく、仮に本来自分が望んでいた目標がありそれが叶えられなかったとしても、その後すぐに何か違う形で、且つ自分の納得できる形でそれに近い目標を達成することが出来ていたからです。ですが、その時初めて挫折というか、もう自分ではどうすることも出来ない失望や絶望もあるのだという事を知り、経験し、学びました。

転職活動が上手くいかずいくつものお祈りメールを受け取るたびに、返事が来るまでの間、期待に胸を膨らましていた自分の心が裏切られ、ズタボロになっていくのが分かりました。その時、「あぁ・・自分が期待し過ぎているから、結果が上手くいかなかった時にこれ程傷つくのか・・・」という事を初めて「感情として学んだ」のです。                      「期待の反対は失望だ」、「希望の反対は絶望だ」、「希望を持つから絶望するんだ」などという言葉をそれまでに幾度と聞いたことはありました。しかし、こういった言葉を聞くたびに「何を言ってるんだ・・・?希望は希望。絶望は絶望。別物だろ。何で一緒に考えるんだ!?」といった感じに、それまでは「あまり理解できない言葉」くらいにしか思っていなかったのですが、この時初めて直にその意味を体感した気がします。                 「期待や希望を抱いているから、その期待や希望が叶えられなかった時に傷つき、裏切られた様な気持ちになり絶望する」。               まさに「期待し過ぎるとロクなことがねぇ」でした。

 

ここまでの話を聞くと、「ネガティブな意味でキッドの言葉に共感した」と捉えられるかもしれません。しかし「最終的には」そうではありませんでした。                                勿論当初はこの言葉を単純に受け取り、ネガティブなそのままの意味で捉え、「世の中上手くいくことばかりではないんだな・・。キッドが正しかったのかもしれない・・・」、「当時は嫌いなセリフだったけど、いざ自分が苦しい状況下になると納得できてしまった・・。まさかこんな日が来るなんて・・・」といったことばかり考えていました。ほぼ自分が起きている時間帯であれば、無意識にこのキッドの言葉を思い出してしまうくらいにはこのセリフが頭からずっと離れずにいました。

しかしある日、ふと「あれ・・?この言葉ってもっと俯瞰的に見るとポジティブな意味合いにも捉えられるんじゃないか・・?」と何故か思ったのです。あまりにもこのセリフが頭から離れず、このセリフのことばかりを考え過ぎていたせいでしょうか。                                自分が何かに期待をしていた際、その期待と相反する結果になった時はとても裏切られた気持ちになり、失望し、傷付きます。しかし、このキッドのセリフをある種、俯瞰した様な視点で捉えると印象が全く変わりました。こんな感じでしょうか。

「確かに期待し過ぎて良い結果にならなかった時は辛い気持ちにさせられてしまうし、絶望に暮れてしまう時すらある。大前提として '失望や絶望したいわけではないし、それを望みもしていない' 。失望や絶望という感情を味あわずに済むのならそれに越したことはない。期待から生まれる '希望が叶えられた先の未来のイメージ' を持ち過ぎるのではなく、現在に意識をフォーカスしていれば大きく傷つくこともないのではないか? '希望が叶えられた先の未来のイメージ' を持つという事は、現在ではなく未来に意識をフォーカスしていることになるのだから」                        「自分は今 '現在' に居るのに、'未来' に向けて意識をフォーカスしているからそれが '期待' になる。ならば、結果が出るまでの期間は 'ただの結果が出ていない過程の時間' という捉え方をすれば、結果が出た時には '結果が出た今' にフォーカス出来るはず。未来に意識を向けて良い結果を期待し続けている状態ではなく、'結果が出た時点で初めてその''今''を見つめ、結果を受け止める' ことが出来れば、仮に悪い結果だったとしてもその結果を受け入れやすくなる」

これは私が本当に苦しい時期に居た際、「深い所まで突き詰めると、あのセリフってもしかしてこういう捉え方も出来るのかもしれない・・・」と勝手に閃いたことなので、作者の真意云々は関係なく、あくまで私個人の解釈の仕方です。しかし、「こういう解釈も出来るな」と自分の中では腑に落ちた出来事でした。                                また同時に、自分自身で起こす行動力や努力も大事ですが、「これだけ自分はしてきたのだから絶対に大丈夫のはず・・・!良い結果が出るに決まっている・・!」といった期待を抱くのはもう止めようと思いました。そうすることで、「やることはやった。やれることはもうない。ならもう後は成り行きに任せよう」くらいの心持ちで居る事の、「精神的な居心地の良さと、良い意味で変に感情を左右されない状態で居れることの大切さ」に気付いたからです。                               簡単に言ってしまうと、「一喜一憂」しなくなったのです。

 

今回私がお伝えしたいことは、「自分の行った行動に対して期待はしない方がいい。期待が裏切られた時に辛い気持ちになってしまうよ」という事ではありません。                               むしろ「期待」という自分自身を高揚させてくれる感情はとても大切なモノだと思いますし、何事においても全く期待をしない人間なんて聞くととても寂しい人間に感じてしまいます。それに本気度の高い挑戦こそ大きな期待も自然としたくなるでしょう。                         ただ、そこにあるのは「良くも悪くも 'ただの結果という出来事' 」です。同じ「結果という出来事」があったとしても、その結果から何をどう感じるかは人によって異なります。                          物凄く極端な例えですが、とある結果に対し、その事柄に深く携わった人と、その事柄に少しばかり携わった人とでは、その '同じ結果という出来事' に対して感じる感情は大きく異なります。客観的に見れば 、「 '同じ出来事' であることには変わらないはずなのに」です。                     より俯瞰して言うのであれば、その「結果」は等しくただの「出来事」なのです。その結果に一喜一憂するのは、「その結果に対し、感情の伴った意味付けを自分自身がしているから」ではないでしょうか。           

自分自身の中で、「やることはやった。これで良い結果が出なかったらもうどうしようもない。お手上げだ。あとはもう成る様になれ!流れに任せます」くらいの気軽さで居れることの心地の良さは、決して悪いものではないと自身の経験から感じます。

あらゆる物事や出来事に対して、「常に何かしらの感情が伴った意味付け」を私たちは無意識にしています。俯瞰的な視点を踏まえた、その意味付けの程度次第(どれ程その出来事や結果に対して感情の伴った意味付けを自分自身が行うか)では、私達は「様々で複雑な '感情' 」というモノと共存し、より生きやすい人生を送れるのではないでしょうか。

 

「流れ星」と「人生における巡り合わせ」

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こんにちは。リオ / Rioです。

先日は「〈共存の大切さ〉 動物と人間・自然と人間」というテーマでお話をさせていただきました。特に意図したことではなかったのですが、ここまで書いた3つの記事はいずれも動物関係でした。               本日はまた方向性の違う、「人生」関係の記事を書いてみたいと思います。よろしくお願いいたします。

お願いします4

つい先日、流れ星を見ました。私は夜5km程のランニングをするのが日課なのですが、その際「ぽけーっ」と夜空を見ながら走っていると、ラッキーなことに流れ星を見ることが出来ました。流れ星を見たのは実に数年ぶりくらいだったでしょうか。

この「流れ星」の捉え方については、日本では「流れ星を見てお願い事をすると願いが叶う」といったポジティブな要素として捉えられていますが、一方ヨーロッパの一部の地域では、「1つの命の終わりを意味する」といった解釈もなされているようです。「人は誰もが空に1つの星を持っていて、その命を終える時、流れ星として現れる」という考え方だそうで、これは中国の三国志の時代でも同じような解釈をされていたといいます。

同じ流れ星でも国や文化によって様々な解釈があるわけですが、今回は日本的なポジティブな解釈に基づいてお話を進めていけたらと思います。

 

皆さんの中にも流れ星を見た次の日、友人に「昨日、流れ星を見たんだ!凄く綺麗だった!」といった様な話題を振ったことがある方もいるのではないでしょうか?                                  すると、                               友人「え、どこで?何時頃?」                     自分「20時頃○○で!東の方角だったよ!」                 友人「えー!その頃ちょうど用事があって外にいたけど全然気付かなかったよぉ・・・」                                     なんていう会話をしたり、もしくは耳にしたことがある方も多いと思います。

この会話でも分かるように、一見大まかな「時間・場所・方角」という条件が合っていたとしても、例えば「ゼロコンマ数秒の差」でその方角を見そびれてしまっていたり、時間と方角は確実に合っていたけれど、「自分がいた場所からはその方角には大きなビルが建っていて見えなかった」、などといった様な、細かな条件の差で流れ星を見落としてしまう事もあります。

先日私が流れ星を見た瞬間感じたことがあります。           「この時間・この場所・この方角、といった様々な条件が合致した 'ベストなタイミング' で自分がここに居たからこそ、この流れ星を見ることが出来たんだな」と。                                これは、「人生における、あらゆる巡り合わせ」という要素に重ねてみても同じことが言えるのではないかと感じました。

 

人生には様々なことが起こり得ます。良い事も悪い事も。         例えば人生において自分が何かのチャンスを掴む際、その「時・場所・方角(自分が見据えている方向性)」の全てが上手く噛み合った時、自分を導いてくれる新たな出会いがあったり、目標に近付いたり、夢の実現が起こると思います。それは、その人が「その時期に、その場所に住み、その場所で様々な人間関係を育み、自分の信念に従って行動してきた結果」、ベストなタイミングで物事が動き出してくれたかの様にも感じられます。                                一見、自分としては「全然上手くいかない・・・」、「神様にお願いしてるのになぁ・・・」などという様に「待つ時間」が長く感じられたとしても、後になって振り返った時、「あの時期、あの場所で踏ん張って、耐えていたからこそあのキッカケが生まれて、今に繋がったんだな」と思えることもあるのではないでしょうか。                                        勿論、自分の信念に従った努力なども重要だと思います。しかし、それと同時に良い縁を育み、自分を導いてもらったり、逆に自分が導く立場になったり、「その時期にその場所に居て、 '人' と繋がっていたからこそ生まれる '縁' 」という物も、同じくらい重要で大切だったりするのではないでしょうか。

 

流れ星を例に取るならば、私は先日「○月○○日、日本の○○県の20時、東の方角」の空を見ていて流れ星を見ることが出来ました。しかし、例えばこれが「同日の○月○○日、アメリカ・カリフォルニア州の20時、東の方角」の空を見ていても同じ流れ星を見ることは出来ないでしょう。        一方で同じ日本にいたとしても、県が違ったり、外ではなく部屋でテレビを見ていた、疲れて既に寝てしまっていた、などといったケース。或いは、「全く同じ場所と時間に外に出て空を眺めてはいたけれど、真逆の西の方角を見ていた」といった様な、「些細な選択肢の違い」で「その機に遭遇するか」、「その機を逃すか」という結果にも繋がります。 

ただ、ここで私が言いたいのは決して、「流れ星という名のチャンスを掴めるか掴めないかはアナタ次第!いつでもどこでも注意を払って流れ星を見落とさないようにしないといけない!」という事ではありません。                                ここで伝えたいのは、「各々に相応しいベストなタイミングというものが在り、そのタイミングが来た時、自分が意図せずとも自然と流れ星が自分の目に入り込んでくれる」ということです。そして、そういった自分が意図していない「不思議な巡り合わせ」にこそ、実は大きな意味が眠っているのかもしれません。                                もっと分かりやすく表現するならば、私は上述したタイミングで流れ星を見ることが出来ましたが、私がお風呂に入っている時、もしくはこうやって文章を書いている時、この日本や世界のどこかでは私が見ることの出来なかった流れ星を見ている人達が大勢いるはずです。                  それはその方達にとっての必要な「相応しいタイミング」だったからであり、「私にとって必要な流れ星ではなかった」ということです。                 

この「人生に例える '流れ星' 」を見ることが出来たという事にどれ程大きな意味があるのか、もしくは無いのかは分かりません。                      しかしこれを人生と重ね、「その人が・その時期に・その場所で・その方角を見据え、信念を持ち生きていた」という事実が少なからず在るからこそ、その「 '導かれたタイミング' で見ることが出来た、必然的な流れ星(縁・チャンス・夢の実現など)もまた存在する」という捉え方をしてみても面白いのではないでしょうか。

「時間・場所・方角」の全ての要素が重なり、その「流れ星」という名の光景を目の当たりに出来るというチャンスは、ある種の「人生における興味深い1つの要素を体現している」と個人的には感じます。                  「絶妙なタイミングで物事が進み出す 'キッカケの種' 」は、実は全ての人が気付かずとも自分の中に持ち合わせている物だったりするのではないでしょうか。

日常にある「ひょんな出来事」を、面白みのある様々な角度から見てみるのも、「 '生きる' を楽しむ1つの要素」に成り得るかもしれませんね。