〈共存の大切さ〉動物と人間・自然と人間

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こんにちは。リオ / Rioです。

先日は「〈動物の命〉動物の交通事故現場を通して感じる事」についてお話させていただきました。                         その中で、「目の前で猫が車に跳ねられてしまった所に遭遇した」というお話をさせていただきましたが、この一件以外にも私は小さい頃から様々な昆虫や動物が亡くなってしまっている所に遭遇することがよくありました。    学校の登下校や遊びに出掛ける際、道端を何気なく歩いていたりすると、足元に昆虫や鳥が亡くなっている姿を発見することがよくあったりしました。その度に人に踏まれたりしない、且つ草花が咲いているような寂しくない様な場所を選んで埋葬していたのですが、中でもとても「珍しい動物」に遭遇したことがあります。                                そこで本日は、その「珍しい動物」を見た時に感じた、「人間と動物の共存の大切さ」というトピックについてお話したいと思います。                              よろしくお願いいたします。                    (*)日本語において動物に対し「亡くなる」という言葉を使うのは間違いとされていますが、個人的には同じ現象にありながら人間と動物とで言い方を変えることが理解できないので、あえて「亡くなる」という表現を使わせていただいております。まるで人間と動物とで命の重みに差がある区別の仕方の様に感じます。

お願いします3

先程、「私は小さい頃から様々な昆虫や動物が亡くなった姿に遭遇することがよくありました」とお話しましたが、そういった時は何故か不思議なことに、たまたま近くに公園や河原があったり、もしくは自宅近くだったりすることが多かった気がします。個人的にはそういった場所が近くにあると埋めてあげやすいので助かっていた記憶があります。                       ここで少し寄り道をさせてください。本筋とは少しずれるのですが、とても驚いた出来事があったので少しばかりお話させていただけますと幸いです。

そういった機会が数々あった中、物凄く驚いた出来事が起こったことがあります。その時私はバイクに乗っていたのですが、いきなり数メートル前方に正体不明の物体が落ちてきて、「ボトッ」という鈍い音を立てたことがありました。「え!?いきなり上から何だ!?どうした!?」と慌てて上を見上げたのを覚えています。バイクに急ブレーキをかけ、頭上を確認しましたが、電信柱はもちろん電線すらありませんでしたし、付近には建物や木すらない様な場所でした。バイクから降り、恐る恐るその落ちた物体に近付くと、それは「スズメ」でした。こんなことは初めての経験だったので、「空を飛ぶはずの鳥がどうして空から落ちてくるんだ!?」と頭が混乱したのを覚えています。心配して声をかけ、少し触って撫でたりもしてみましたが、ピクリとも動かず亡くなってしまっていることを悟りました。この時も割と近くに公園があったため、そこへ連れて行き埋めたことがありました。           

と、今回お話したいトピックの本筋である「珍しい動物」はこのスズメではありません。話が逸れてしまいすいません(汗)。つい文章を書き進めていたら「こんなこともあったなぁ」と寄り道してしましました。

 

話を戻しますね。                           これまで私が埋葬をお手伝いさせてもらってきたいくつかの生き物の中でも、「え!?どうしてこんな動物がここにいるの!?」と思わされた出来事がありました。そして、「その動物が我々人間の生活圏内で亡くなっていた」という事実から、私が感じた「人間と動物の共存」という部分について感じたことをお話させていただければと思います。

その出来事が起こったのは家のすぐ近所でした。徒歩だと歩いて1分もかからない場所で、そこそこ交通量も多い大きめの道路があります。時間帯は20時辺り、その日は用事があり車で出かけようとしていました。家を出発しその道路を横切ろうとした時、黒い物体が道路に横たわっているのが見えました。夜だったため姿ははっきりとは見えなかったのですが、「サイズ的にもシルエット的にもおそらく猫だろう」と思ったのを覚えています。その道路は時間帯により交通量が激しい時間帯とそうでない時間帯とで波がある道路で、丁度私が発見した際には幸い交通量が少ない時間帯でした。「このままではいけない・・!」と、すぐさま家に戻り、軍手をして移動させに行きました。

幸い体に外傷はなく、抱えた瞬間はまだ少し体の温かさを感じました。おそらく轢かれてしまってそう長くは経っていなかったのでしょう。しかし体は完全に脱力し、ピクリとも動きませんでした。口元をよく見ると少しだけ吐血した形跡があり、「あぁ・・もうダメか・・・」と感じたのを覚えています。しかし同時に、「あれ・・?この口の形、猫でも犬でもないぞ・・?」という事に気付きました。「口」が明らかに猫や犬のそれではなかったからです。暗い中目を凝らすと、それはなんと「狸」だったのです。        

それを知った瞬間、私の口から自然と出た言葉は「人間のせいでごめんね・・・」でした。                         

勿論、車に轢かれてしまう猫や犬がいるという事は知っていますし、彼らに対して同じことを一切思わないという訳では決してありません。しかし一概には言えないかもしれませんが、飼われている猫や犬は勿論のこと、野良猫にしても野良犬にしても、基本的には私達人間の生活圏内で生き、コミュニティーを築いています。それはある種、人間の生活圏内で生きることに多少の「慣れ」だったり、経験と耐性があると表現した方が分かりやすいでしょうか。                               しかし、我々の生活圏内に「狸」がいたという事は、この狸は野生の可能性が高いという事です。この様な本来いるはずのない野生動物が、我々の生活圏内にいることがおかしいのです。私の住んでいる場所は物凄い都会でもなければ、ものすごい田舎でもありません。すぐ側に山があり、川があり、野生動物を普段からよく目にするという場所ではないのです。確かに山はありますが、車で30~40分かけてやっと辿り着くくらいの距離で、野生動物を私の自宅付近で目にすること自体珍しい環境になります。そんな場所に狸が車に轢かれて横たわっていたのです。

これが意味することは、「生態系を破壊され、住処や食べ物を探して人間の生活圏に移動してきた確率が高い」ということになります。彼を見て「狸」だと認識した瞬間に感じたことがあります。                 今人間は当たり前のように我が物顔で、「地球は私達人間の所有物である」かの様に生活していますが、それは大きな間違いです。ここまで豊かで不便のない生活を送るには、自然という名の大きな犠牲がありました。そこには様々な植物や動物がいて、彼らの生態系を壊して、追いやった上に成り立っているのです。そしてついには自分たちの居場所が亡くなってしまった動物達が、彼らにとっては不慣れな近代化された街に降りて来ざるを得ず、我々の文明に殺されてしまっているという現実があるのです。                   こんなに虚しいことがあるでしょうか?

 

昨今、様々な動物被害のニュースを目にします。無論、被害を受けている農家の方だったり生産者の方の気持ちも察します。しかし、その事態を人間側の視点からのみ見ると、「被害が大きくなっては困る。早急に対処しなければ」と、動物達を追いやり山へ帰そうとする行動に出ます。勿論、「そのまま放置しておけばいい。被害なんて知ったこっちゃない」などとは口が裂けても言うつもりはありません。                                しかし一方で、ここに「動物側に立った視点」はあるでしょうか?     追いやった後、果たして「動物達の生態系が壊れているから彼らは来てしまったんだ。生態系を取り戻そう!」と、彼らのために行動を起こす '被害に合った側の人間' がどれ程いるでしょうか?ほぼ皆無ではないでしょうか。                   「被害に合わされたのはこっち(人間側)なのに、何でそんなことしなければならないんだ!」と思う人間が大半でしょう。              

しかしこれらは、「今の人間の生活が当たり前だと思っている人達。及び、大前提として '人間の意志が最優先されるべき世界である' といった認識を持つ '人間側の視点' 」に過ぎません。別の言い方をするならば、「本来、自然と動物と共存してきた有難みや感謝の心を忘れた、人間本位の考え方」という表現も出来るでしょう。

では動物側はどう思っているのでしょうか?              「人間が動物の言葉なんて分かる訳ないだろ!」という元も子もない意見は置いておいて、少なくとも動物側の視点に立って彼らの気持ちを想像することが重要だと考えます。少なくとも彼らの中にはこの様な気持ちを持っている動物がいると思います。

「いつも通り生活していたら、いきなり人間が来たんだ。山を切り崩されて、住処を追われて、食べ物も無くなって・・・。新しい住処と食べ物がありそうな場所を探していたらここに辿り着いた。」

 

勿論私は動物の言葉は分かりません。あくまで私が想像した動物の気持ちに過ぎません。これに対し、「お前の勝手な想像で話をするんじゃない!動物はそんな風に思っていない!」などといった意見もあるかと思います。しかし、現代の何不自由のない満たされた生活を人間が手に入れるにあたって、少なくとも「多くの自然を犠牲にしてきた」という事実は否定のしようがありません。                               これは山に限りません。海もです。埋め立て、汚し、生態系を崩し、それでもなお「人工的に生み出す養殖」という技術を駆使し、「人間の物質的な欲を満たすためだけの、'非自然的な方法' 」でそれを補っています。勿論これは「海」だけに言える例ではありません。

本来共存し、互いに助け合ってきた「自然・人間・動物」という関係性が、一体いつの日から「人間>自然・動物」という構造になってしまったのでしょうか?                                 そういった無意識の認識を心のどこかに持ち、植えつけられ、それに対し何の疑問も持たずに我が物顔で生きる我々人間とは一体何様なのでしょうか?

この認識や構造は絶対に変えなければならないと個人的には感じます。そもそも「地球」という惑星が存在しているおかげであらゆる生命体が生きていられます。                                様々な星々がぶつかって地球が誕生した時、そこにはまず「大気と海洋」があったといいます。それはつまり順序的にも自然が先に在り、次に生物が生まれたのです。生物が先に存在していて自然が誕生したわけではありません。逆に言えば、大気と海洋が無ければ生物は生まれて来ることすらできなかったという事になります。                                  これだけでも、「如何に自然が我々人間の大元となる重要な存在なのか」が分かるのではないでしょうか?                      もっと身近なもので例えるならば、「子供が先にいて母親が生まれてくるわけではありません。母親になる存在が先にいて、子供が生まれてくる」のです。

しかし、それをいつしか自分達の私利私欲のため、必要以上の自然と生態系の破壊を行い、「自分達人間がこの地球上で最上の存在として君臨している」といった誤った認識を持ってしまっています。同時に、この認識に対してほんの少しの罪悪感や違和感を持たないどころか、何の疑問も感じずに現状を受け入れ、当たり前の様に生きてしまっている人間が多くなっていると個人的には感じています。

 

「そもそも地球は自分達人間にとってどういった存在なのか。かつてはどういった存在であったか」。そして、「どうして自分達人間が生命を存続させる事ができていて、呼吸ができていて、生活できているのか」、といった様な、「根本的な当たり前」にこそ気付き、立ち返り、そこに意識を向けていく必要がある段階に来ているのではないかと個人的には感じます。