「流れ星」と「人生における巡り合わせ」

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こんにちは。リオ / Rioです。

先日は「〈共存の大切さ〉 動物と人間・自然と人間」というテーマでお話をさせていただきました。特に意図したことではなかったのですが、ここまで書いた3つの記事はいずれも動物関係でした。               本日はまた方向性の違う、「人生」関係の記事を書いてみたいと思います。よろしくお願いいたします。

お願いします4

つい先日、流れ星を見ました。私は夜5km程のランニングをするのが日課なのですが、その際「ぽけーっ」と夜空を見ながら走っていると、ラッキーなことに流れ星を見ることが出来ました。流れ星を見たのは実に数年ぶりくらいだったでしょうか。

この「流れ星」の捉え方については、日本では「流れ星を見てお願い事をすると願いが叶う」といったポジティブな要素として捉えられていますが、一方ヨーロッパの一部の地域では、「1つの命の終わりを意味する」といった解釈もなされているようです。「人は誰もが空に1つの星を持っていて、その命を終える時、流れ星として現れる」という考え方だそうで、これは中国の三国志の時代でも同じような解釈をされていたといいます。

同じ流れ星でも国や文化によって様々な解釈があるわけですが、今回は日本的なポジティブな解釈に基づいてお話を進めていけたらと思います。

 

皆さんの中にも流れ星を見た次の日、友人に「昨日、流れ星を見たんだ!凄く綺麗だった!」といった様な話題を振ったことがある方もいるのではないでしょうか?                                  すると、                               友人「え、どこで?何時頃?」                     自分「20時頃○○で!東の方角だったよ!」                 友人「えー!その頃ちょうど用事があって外にいたけど全然気付かなかったよぉ・・・」                                     なんていう会話をしたり、もしくは耳にしたことがある方も多いと思います。

この会話でも分かるように、一見大まかな「時間・場所・方角」という条件が合っていたとしても、例えば「ゼロコンマ数秒の差」でその方角を見そびれてしまっていたり、時間と方角は確実に合っていたけれど、「自分がいた場所からはその方角には大きなビルが建っていて見えなかった」、などといった様な、細かな条件の差で流れ星を見落としてしまう事もあります。

先日私が流れ星を見た瞬間感じたことがあります。           「この時間・この場所・この方角、といった様々な条件が合致した 'ベストなタイミング' で自分がここに居たからこそ、この流れ星を見ることが出来たんだな」と。                                これは、「人生における、あらゆる巡り合わせ」という要素に重ねてみても同じことが言えるのではないかと感じました。

 

人生には様々なことが起こり得ます。良い事も悪い事も。         例えば人生において自分が何かのチャンスを掴む際、その「時・場所・方角(自分が見据えている方向性)」の全てが上手く噛み合った時、自分を導いてくれる新たな出会いがあったり、目標に近付いたり、夢の実現が起こると思います。それは、その人が「その時期に、その場所に住み、その場所で様々な人間関係を育み、自分の信念に従って行動してきた結果」、ベストなタイミングで物事が動き出してくれたかの様にも感じられます。                                一見、自分としては「全然上手くいかない・・・」、「神様にお願いしてるのになぁ・・・」などという様に「待つ時間」が長く感じられたとしても、後になって振り返った時、「あの時期、あの場所で踏ん張って、耐えていたからこそあのキッカケが生まれて、今に繋がったんだな」と思えることもあるのではないでしょうか。                                        勿論、自分の信念に従った努力なども重要だと思います。しかし、それと同時に良い縁を育み、自分を導いてもらったり、逆に自分が導く立場になったり、「その時期にその場所に居て、 '人' と繋がっていたからこそ生まれる '縁' 」という物も、同じくらい重要で大切だったりするのではないでしょうか。

 

流れ星を例に取るならば、私は先日「○月○○日、日本の○○県の20時、東の方角」の空を見ていて流れ星を見ることが出来ました。しかし、例えばこれが「同日の○月○○日、アメリカ・カリフォルニア州の20時、東の方角」の空を見ていても同じ流れ星を見ることは出来ないでしょう。        一方で同じ日本にいたとしても、県が違ったり、外ではなく部屋でテレビを見ていた、疲れて既に寝てしまっていた、などといったケース。或いは、「全く同じ場所と時間に外に出て空を眺めてはいたけれど、真逆の西の方角を見ていた」といった様な、「些細な選択肢の違い」で「その機に遭遇するか」、「その機を逃すか」という結果にも繋がります。 

ただ、ここで私が言いたいのは決して、「流れ星という名のチャンスを掴めるか掴めないかはアナタ次第!いつでもどこでも注意を払って流れ星を見落とさないようにしないといけない!」という事ではありません。                                ここで伝えたいのは、「各々に相応しいベストなタイミングというものが在り、そのタイミングが来た時、自分が意図せずとも自然と流れ星が自分の目に入り込んでくれる」ということです。そして、そういった自分が意図していない「不思議な巡り合わせ」にこそ、実は大きな意味が眠っているのかもしれません。                                もっと分かりやすく表現するならば、私は上述したタイミングで流れ星を見ることが出来ましたが、私がお風呂に入っている時、もしくはこうやって文章を書いている時、この日本や世界のどこかでは私が見ることの出来なかった流れ星を見ている人達が大勢いるはずです。                  それはその方達にとっての必要な「相応しいタイミング」だったからであり、「私にとって必要な流れ星ではなかった」ということです。                 

この「人生に例える '流れ星' 」を見ることが出来たという事にどれ程大きな意味があるのか、もしくは無いのかは分かりません。                      しかしこれを人生と重ね、「その人が・その時期に・その場所で・その方角を見据え、信念を持ち生きていた」という事実が少なからず在るからこそ、その「 '導かれたタイミング' で見ることが出来た、必然的な流れ星(縁・チャンス・夢の実現など)もまた存在する」という捉え方をしてみても面白いのではないでしょうか。

「時間・場所・方角」の全ての要素が重なり、その「流れ星」という名の光景を目の当たりに出来るというチャンスは、ある種の「人生における興味深い1つの要素を体現している」と個人的には感じます。                  「絶妙なタイミングで物事が進み出す 'キッカケの種' 」は、実は全ての人が気付かずとも自分の中に持ち合わせている物だったりするのではないでしょうか。

日常にある「ひょんな出来事」を、面白みのある様々な角度から見てみるのも、「 '生きる' を楽しむ1つの要素」に成り得るかもしれませんね。