「一般的に認識されている愛の概念」とは、「本当の愛」とはかけ離れている「差別」であるというお話。

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こんにちは。リオ / Rioです。

先日は、〈「本質的には同じ出来事に近くとも、自分の立ち位置(観点)が変われば違う感覚や選択肢が生まれる」というお話。〉というテーマを基にお話をさせていただきました。

前回のトピックではワンピースのあるワンシーンについてお話をさせていただいたのですが、そのシーンとまた切っても切り離せない様な、これまた深い言葉をふと思い出したので、今回はその言葉についてお話させていただけたらと思います。                             よろしくお願いいたします。

お願いします3

これまたとある漫画からのセリフになってしまうのですが、どうかご容赦を(笑)。                              しかしこう考えると、漫画から考えさせられる事柄や言葉というものは本当に多いものですね。こういった刺激を受けて生きていく事と、全く受けずに生きていく事とでは、「対:人生」ないし「対:人」という観点から見ても、自身の価値観や人に対する接し方も大いに変わってくる程、目には見えずとも大きな刺激を貰っているのかもしれません。

 

ではお話を進めていきましょう。                      今回扱う作品は「ヴィンランド・サガ」という漫画になります。この作品は月刊アフタヌーンにて連載されている作品で、物語の舞台は11世紀初頭の北ヨーロッパエリアでのお話となります。時はまさにヴァイキング達の覇権争いが行われている時代です。ヴァイキングとは、つまりは海賊行為を行う者達のことで、村を襲い、食料を奪い、人を襲い、また一国の傭兵として雇われ戦っていたりもしました。いずれにせよ野蛮な行為が横行していた時代となります。

今回お話したい内容では重要な人物が2人います。              1人はクヌートというこの物語の主要人物です。彼は一国の王子なのですが、幼少期から宮廷での政争を目の当たりにしてきたことや、父から抑圧されていたことから、非常に臆病で争いを好まない性格の人物です。またキリスト教を重んじていたことから、神を「救いをくれる 'はず' の存在」として捉えています。                             そしてもう一人がヴィリバルドというキリスト教の修道士です。常に「愛とは何か」を追い求めている人物となります。

このクヌート王子は実父の謀略により戦地に送られるも大敗し、捕虜にされてしまいます(実父は意図的にクヌートを戦地に追いやり殺そうとしていました)。それでも何とか逃げ、生き延びようとするのですが、戦う事を恐れ・避け、結果的に自分のお付きで唯一心を開いていたラグナルという人物を失い絶望に暮れてしまいます。(このラグナルは、敵からクヌート王子を何としても逃がすため、逃げる途中でたまたま立ち寄り、自分達に良くしてくれた村人達を利用し、意図的に追手の犠牲にしてしまいます)            そんな時、ヴィリバルド修道士との問答によって、「愛の本質と人間の不完全さ」を悟ります。この時からそれまでの臆病な性格から一変し、「自らが王となり、神に代わって自らの手で地上に理想郷を生み出そう」という決意を胸にします。「神などあてにならない。これ程酷く悲しいことが世界には起こり続けているのに、手を差し伸べ救う事すらしてくれない。ならば自分自身の手で誰もが救われる理想郷を作ってやる」という心情が生まれました。

そしてこのクヌート王子がこの様な決断に至った、「ヴィリバルド修道士との会話」にこそ今回お伝えしたいセリフが含まれています。             少し長くなりますが、要点を残しつつ会話の一部をご紹介します。時系列的にはラグナルが死んでしまった後での会話となります。

 

クヌート:「もうこの地上に私を愛してくれる者はいなくなった」
ヴィリバルド:「それは大いなる悟りです。だが惜しい。ラグナル殿のあなたへの思いは愛ですか?彼はあなたのために62人の善良な村人を見殺しにした。殿下、愛とは何ですか?」

(中略)

クヌート:「ならば親が子を・・夫婦が互いを・・ラグナルが私を大切に思う気持ちは一体なんだ?」

ヴィリバルド:「差別です。王にへつらい奴隷に鞭打つことと大して変わりありません。ラグナル殿にとって王子殿下は他の誰よりも大切な人だったのです。おそらく彼自身の命よりも・・。彼はあなた1人の安全のために62人の村人を見殺しにした。差別です」

(中略)

クヌート:「・・神は・・・こうしている今も我々のことを見ていらっしゃ    るのだろうな・・・。友を失い、親と子が殺し合う。そんな様の全てを天空の高みから見下ろしておられるのだろう。許せぬ・・・。私はこの地上に楽土を作るぞ、平和で豊かな、生き苦しむ者達のための理想郷を・・。私の代では成し得ぬかもしれぬ。それでも最初の一歩を私が踏み出すのだ。神はきっと私を愛で御許へ召そうとするだろう。その時私は神にこう言うのだ。'もはや天の国も試練も要らぬ。我々の楽園は地上にある' とな」

 

この「愛とは差別」という言葉を聞いた時、私は唖然としました。最初は一体何を言っているのか全く理解できず、頭が追い付きませんでした。    実質的にはヴィリバルド修道士は「愛=差別」とは言ってはいません。しかし、上述したクヌート王子のセリフにあった様に、「親が子を・・夫婦が互いを・・ラグナルが私を大切に思う気持ち」というものこそを、私は「愛」であるとずっと認識していました。何の疑いもなく。               「自分にとって大切な人を想い、慈しみ、愛しく想う心」、それこそが「愛」だと。   

しかしこのヴィリバルド修道士の言葉を聞き、「はっ」とさせられました。自分がこれまで何の疑いもなく信じていた「愛」は、「'本当の意味での愛' ではなかった」のです。                                   一般的に愛とは、「この人の為なら何でも出来る。煩わしささえ感じない。何より自分自身より大切で、無償の愛を無意識に提供してしまうこと」という様に捉えられていると思います。                  しかし、それは突き詰めれば「自分にとって特別な人に対してのみ」という、「限定条件」が伴っているのです。                  

分かりやすく言うとこんな感じです。                      「あなたには大切な両親・パートナー・子供・親友がおり、それらの人達に対して '何でもしてあげたいし、してあげられる。それを何も苦だとは思わないし感じない。そう出来ることが本当に心から幸せ'」と感じているとします。これは一般的には誰もが理解できる、「愛というイメージ」から連想できる感情だと思います。                             しかし、では「全く知らない赤の他人に対し、全く同じレベルでの '上述した愛' を持って、同じ接し方が出来るでしょうか?同レベルの愛を提供できるでしょうか?」                          おそらく多くの人が「出来ない」と答えると思います。         これをヴィリバルド修道士は「差別」と呼んでいます。これまでは一見、「これこそが愛だ」と信じて疑わなかった「愛という概念」、「愛という価値観」が一瞬にして崩れるのではないでしょうか?           このヴィリバルド修道士の言葉に倣うなら、これまで「これが愛だ」と一般的な概念として捉えられていたものは、ある種「真実の愛」とは ''かなりかけ離れたもの'' だったのです。

勿論、我が子に対する愛や、両親、子供、親友に対する「想い・気持ち・愛」の全てが「偽物」だと言っているわけではありません。それらの気持ちは何一つ偽りのない「本物の愛」です。                しかしそれは同時に、明らかに「限定された愛」でもあり、「その '対象が限定されている愛' を本当の '深い意味での愛' と呼んでいいのだろうか?」という観点で考えると、「そうは呼べない」というのが私個人の考えです。

 

(*)これからお話する例えとして「ボランティア」という活動を扱いますが、これは決してボランティアをされている方々に向けて言葉を発しているわけではありません。あくまで「本当の・真実の愛」という観点から、分かりやすく理解していただくための例えとして用いているだけですので、ご理解いただけますと幸いです。また、「利他的な感覚を持つ人間」と、「利己的な感覚を持つ人間」とで比較したい部分でもあるため、よりイメージしやすい例えとして「ボランティア」という活動を扱っております。                              大前提としてボランティア自体とても素敵なことだと私は考えています。 自分自身が何かの対価を得るための利己的な行動ではなく、利他的な心を持った素晴らしい感覚を持っていると思います。              自分自身の事をどうこう言うつもりは全くありませんが、私は幼少期からボーイスカウトに所属し、様々なボランティア活動を経験してきました。最近では簡易なものになってしまいますが、自宅から半径1キロ弱程のみの範囲内でゴミ拾いを定期的に行っています。本当に些細なことしか出来ていませんが・・・。                                世界の全人口から考えると、どんな形であれボランティアに注力されている方々の割合は少ないでしょうし、そういった活動に注力されている方々は本当に素晴らしい心をお持ちであると感じます。     

        

では引き続き例え話に移りましょう。                 例えばですが、様々なボランティア活動が世界にはあると思います。その活動を通して、「人に・社会に・環境に・○○という問題」に対し、「貢献したい・助けたい・解決したい」、という気持ちは嘘偽りのない本物だと思います。しかし、では上述した様に、「自分の両親・パートナー・子供・親友」に向ける気持ちと全く同等の愛を持ちながら、ボランティア活動の対象となる「人間・動物・自然・事柄」に愛を向けることが出来ているでしょうか?                                大前提としてですが、勿論ボランティア活動をされてらっしゃる方で、まさに「全身全霊を懸け、自分の命を懸けて活動に取り組まれている方」もいらっしゃると思います。ですが、それ程の覚悟と決意を持って取り組まれている方の割合は、全体の総数から見てしまうと決して多いとは言えないのではないでしょうか。

極端な話ではありますが、例えば「とあるボランティア活動において、活動の対象となる人が命の危険にさらされている。同時に、自分の大切な人も全く同じ状況下で命の危険にさらされている。どちらか一人を優先しないといけない」となった場合、優先されるのは明らかに後者となるでしょう。                     はたまた、自分は「○○という分野・事柄を扱っているボランティア」に注力しているが、その注力している以外の分野に関しては「関心度・熱量」が落ちてしまう、こういった場合もあると思います。           ここでも、自分の興味・関心が向けられている分野とそうでない分野とで、そこに向けられる熱量が異なる「差」というものが生まれます。                     勿論これはボランティアだけにいえることではなく、「世の中の全ての事柄」に対して言えることです。                       現実として、「ボランティアをする・したい」という利他的な素晴らしい心を持った方々でさえ、こういった「差」「向ける熱量の違い」という現象が生まれてしまいます。だとしたら、そんな彼らとは真逆の「利己的な心を持つ人々」にとっては、このヴィリバルド修道士の言う「差別」という感覚はより顕著、且つ当たり前の事であり、「本当の意味での他者を思いやる心=愛」とは一番遠い場所にいる存在という事になるでしょう。

 

私達も日々の中で様々なニュースを目にしたり、耳にすると思います。例えばその中で殺人事件があった時、皆さんはそれをどう感じられるでしょうか?                                おそらく「自分と全く関係のない人間が殺された」というニュースを知っても、「あ、そうなんだ」くらいに感じる方もいれば、「うわぁ・・嫌な事件だなぁ・・」と感じる方もいるでしょう。 しかし、そこには確実に「'自分の大切な人が殺された時に生まれるであろう感情' とは全くの別物の、 '他人事の感覚' 」が伴っているはずです。                         勿論これは、「物理的に傷つけた・傷つけられた」という事柄だけに言えることではありません。「心への暴力・見えない傷・飢餓・虐待・貧困・その他諸々の全て」に対して、等しく同じことが言えます。

これは「そう感じることは酷いことだ」、「悪だ」、などと言いたいわけではありません。私自身もそういった出来事に対して他人事の様に感じてしまいますし、それがある種普通の感覚だとも思います。しかし同時にそう感じてしまう自分が「悲しい人間」にも思えます。                 もし、「殺されたり、苦しめられている被害者が自分にとって大切な人」だった場合、他人事には一切感じられないはずです。それを見ず知らずの人間が他人事の様な口ぶりで、「自分とは関係ない事だな。あはは」とでも言おうものなら、心からの怒りと憎しみの感情を抱く事でしょう。        そう考えると究極的には、悲しいかな「人間は基本的に自分の関心があったり感情移入している人や事柄は大切にし、それを傷つけられたら怒るのに、自分の関心の外側にある物事に対しては一切の興味・関心を示さない自分勝手な生き物」という言い方も出来てしまうのではないでしょうか。

「 '好き' の反対は嫌いではなく、'無関心' 」という言葉がありますが、「世界中の至る所で毎日の様に、当たり前の様に起こり続けているのがまさにこの現象」です。                               世界のどこかで飢餓や貧困に苦しんでいる人がいても。同じ国内でさえ虐待や殺人事件が起きていても。それらは多くの人にとっての「他人事」となるでしょう。    

                         

そこでふと思いました。                         「もし世界の誰しもが、全くの赤の他人の '痛み' を知った時、心から悲しみ、憂い、その痛みを心から皆で分かち合おうとする様な感覚を持つ人達で溢れる世界だったらどうなるんだろう?」                  と。

いきなりこんなことを言い出すと「何か怪しい宗教でもやっているのか?」、「頭大丈夫か?」とお思いになられる方も中にはいらっしゃるかもしれませんが、私は変な宗教はやっていませんし、結構真面目です。      

世界がどれ程より良い方向に進むかイメージできないでしょうか?

誰もが、自分の家族だとか、恋人だとか、親友だとか、一切関係なく、「同じ1つの命が亡くなった時・痛めつけられた時・痛めつけられている時、そのことを心から悲しみ痛みを分かち合い、救おうとする行動を起こす」、「命を尊いものだと想い憂う」、こんな感覚を誰もが持っている世界。              勿論これは人間だけに限ったことではなく、究極的には動物や植物、自然に対してもこの様な気持ちを持つことが「誰しもの当たり前」になる日が来るならば、世界はどれ程愛に溢れ、争いや傷つけ合いのない、素晴らしい世界になるでしょうか?

もしこんな世界が成り立つ時が来てくれたなら、「自分さえ良ければいい」、「他人を蹴落としてでも幸せになりたい」、「自分達が幸せになるためなら他の動物の命を軽んじ、自然を壊すことをも厭わない」、などといった、「利己的な考え・価値観・精神性」は世界から消えるのではないでしょうか。

このヴィリバルド修道士が言うような「差別」という概念が無く、「自分の大切な存在に向ける愛」と同等の愛を「万物」に向けることが出来る精神性を誰もが持つ世界になったならば、この世界は「愛と平和」で満ち溢れるはずだと感じます。