〈身近な環境でさえポイ捨てが無くならない。なら、世界ではもっと・・・。〉というお話。

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こんにちは。リオ / Rioです。

先日は、〈「一般的に認識されている愛の概念」とは、「本当の愛」とはかけ離れている「差別」であるというお話。〉というテーマを基にお話をさせていただきました。

本日は、〈「身近な環境でさえポイ捨てが無くならない。なら、世界ではもっと・・・。」というお話。〉というトピックを基にお話をさせていただければと思います。                                 よろしくお願いいたします。

お願いします4

皆さんはゴミのポイ捨てをしたことがあるでしょうか?または、ゴミがポイ捨てされている現場を見たことがあるでしょうか?                 私はこのゴミのポイ捨てが許せません。というもの、「自分自身が欲しくて・食べたくて購入した物に対して、最後まで責任を持たずそれを放棄し、もう要らなくなった袋や入れ物をゴミ箱でない所に捨てる」、「自分の目の前から消えればそれでいい」と思っていることに他ならないからです。       正直この感覚は私には理解しがたく、「自分の目の前から '要らなくなった物' が無くなった後の、そのゴミはどうなるのか」、「自分の行動の先を見て、その後どういう事が起こり得るのか」という事に「なぜ考えを及ばしてくれないのか?」という純粋な疑問が浮かびます。                              

 

私は小学1年生から中学2年生までボーイスカウトに所属していた経験があります。その中で様々なポランティア活動を経験してきましたが、中でも一番記憶に残っているのは「地域の清掃活動」でした。老人ホーム訪問や、障害者施設訪問、募金活動など他にも様々な活動を行ってきましたが、清掃活動は訪問先の都合やアポイントの必要がなく、いつでも自主的に行えてしまう事からか、活動頻度も多かった気がします。                  その影響というか癖からか、道を歩いていてポイ捨てされているゴミを見つけるとついつい拾ってしまうことが今でもあります。(勿論その時の状況で、ゴミを拾った後に手を洗えない・拾った後それを入れる袋の持ち合わせがない、などの場合は見つけたゴミを拾わないケースもあります) 

ここで現役のボーイスカウトだった時の想い出を1つ。          もしかしたら皆さんも一度は経験があるかもしれませんが、小学校高学年から中学生に上がる前くらいの、「ちょっと大人ぶった様な・悪ぶってみたい様な、少しカッコつけて悪いことをしてみたい感じの時期」という感覚をお分かりなる方もいるでしょうか?                      そんな時期に私の周りでは、コンビニで買って食べたお菓子の袋を道端に捨てたり、ドブに流したりと、そういった行為がある種流行っていた時期がありました。当時の彼らにとっての「悪ぶったカッコいい」みたいな感覚だったのでしょう。                               中学生という「もうこれからは小学生じゃない」といった少し大人になってワクワクする感覚。そして、「ちょっと悪ぶってみたりするのが何となくカッコイイ」みたいな、こういった感覚は私自身十二分に理解できますし、分かる方も少なくはないのではないでしょうか?                 あ、でも私自身はこういったことは一切やっていませんよ?(笑)

私は当時、上述した様な「買い食いして食べ終わったゴミを道端にポイ捨てしてしまうタイプの友人」と遊ぶこともありました。そんな時は私のボーイスカウト魂に火が付くのか、そういった友人達がゴミのポイ捨てをする現場を目撃すると、「アホ!自分で食べたゴミぐらい自分でゴミ箱に捨てろ!」と、道端に落とされたゴミを拾い上げ、彼らの自転車の籠に突っ込み直し、ちゃんとゴミ箱に捨てさせていたという事もありました。               懐かしいですが今これを改めて振り返ってみると、「正義感が強強(ツヨツヨ)のうざいヤツ」みたいな感じがしなくもないですね(汗)。

 

大人になった今ではボーイスカウトに所属していた当時の様な、「広範囲の地域でゴミ拾いを行う」ということは全く出来てはいないのですが、自分の出来る範囲内で定期的にゴミ拾いを行っています。私は週に5日ランニングをしているのですが、自宅周辺の自分が決めた3種類のルートがあり、そのルートを週毎に変えながら1日/5周走っています。1周は約2km弱なので合計8~9km走っていることになるでしょうか。始めの1~4周でルート上に捨てられているゴミを見つけておき、5周目でその見つけておいたゴミを走りながら回収して帰宅するという事をしています。                               ゴミを見つけると、「どうしてこういうことが出来るんだろう・・」という悲しさと虚しさ、そしてちょっとした怒りを感じてしまいます。        ある一時期、「毎回毎回、拾っても拾っても中々ゴミは減ってはくれない。自分だけがこんな事をする意味ってあるのかな・・」と考えてしまったこともありました。しかし結果的に行き着いた答えは、「気付いているのに気付かないふりをしているって嫌だな」という単純な感情でした。          これはゴミ拾いに関してだけの事柄ではなく、世の中全ての出来事に対しても言えることだと思います。「人間関係・嫌な事件・時事問題・人権問題・政治問題・環境問題」、あらゆることに当てはまると思います。       「自分も、'自分が嫌だと感じていたそっち側の人間' になるのか?」とふと考えた時、「そうは絶対になりたくない」と強く思いました。 

ゴミを拾う際、いろいろなゴミがあります。「綺麗」という表現はおかしいかもしれませんが、拾いやすい綺麗なゴミもあれば、思わず「汚いなぁ」と思ってしまう物もあります。雨の降った次の日なら、雨や泥でグチャグチャになったゴミを拾う時もあります。                       しかし1つ言えるのは、「私の手がどれだけ汚れて汚くなろうと、私の手は洗えばすぐに綺麗になる」という事です。石鹸を使えば殺菌もしてくれます。しかし、自然や環境はそうはいきません。誰かが見て見ぬふりをしてしまえばそのゴミはそこに在り続け、結果的に環境を害してしまいます。もしかしたら野良や野生の動物がゴミを食べてしまうかもしれません。それで苦しんでしまうかもしれません。あらゆる悲しい出来事が発生してしまう可能性が生まれてしまいます。                              だとしたら、「決して範囲や規模は大きくはないけれど、自分に出来ることをしよう。ボーイスカウトをやっていたという経験もこの感覚や価値観を得るためだったのかもしれない」と思えたのです。

 

ここまで前振りが長くなってしまいましたが、ここで本日のトピックの本題に移らせてください。                          私は上述した様に、週に5日ランニングをしています。おそらくこれを読まれている方で、「走りながらゴミ拾いをしていると言っていたけれど、せいぜい5日の内2日くらいがゴミを拾っている日なんだろうな。他の日はゴミを拾ったばかりで道は綺麗になっているのだろう」とお思いになる方もいらっしゃるかもしれません。しかし実際は、「ランニングする日は毎回何かしらのゴミを拾っています」。                             つまりは、「ゴミをいくら拾っても拾っても、次の日には別のゴミを誰かが捨ており、それがずっと繰り返されている」という現実があるのです。            私が住んでいるエリアは物凄く栄えているエリアでもなければ逆に物凄く田舎という訳でもありません。ごく一般的な住宅街といった感じだと思うのですが、そんなエリアでさえ、更にはたった1km程の範囲内で起こっている事なのに、「拾っても拾ってもゴミが減らない」という事実があるのです。   付け加えて言うならば、ゴミが多い時は「 '一般的なコンビニの袋のサイズの袋' に一杯のゴミが入る」時もあります。

この「同じルートを走りながらも、綺麗にした次の日にはまた新たなゴミが道端に落ちている」という事実は本当に深刻です。             これがそのルートにおいて「同じ人」がやっていることなのか、それとも「別の人」がやっていることなのかは分かりません。しかし、このたった1日という短期間で無くなったはずのゴミが増えているという事実は、「もし私がゴミを拾っていなかったら、1週間・1ケ月という期間で考えた場合、どれ程のゴミが道端に捨てられることになってしまうのか」、はたまた「その結果、どれ程環境が傷つけられてしまう事に繋がるのか」という事を考えさせられざるを得ません。本当に悲しくなります。                         「何故こんなにも自分の都合でしか物事を考えられず、行動できない人間がいるのか」と、とても虚しい気持ちにもなってしまいます。       

悲しい事に、中には「どう考えてもおかしい」と考えさせられてしまう様なゴミの捨て方をする人もいます。                                   コンビニを訪れると入口付近に「ゴミ箱」を用意してくれているコンビニもあります。コンビニだけに限ったことではなく、自動販売機のすぐ近くに「空き缶入れ」を用意してくれている自販機もあります。喫煙所も然りです。(私は田舎県なので、こういったコンビニ側でゴミ箱を用意してくれているというのは日常的な光景だったのですが、首都圏エリアだったりするとそうではない様ですね。初めて知った時は衝撃的でした。)                           そんなコンビニや自販機側の好意で、「ゴミはここに捨ててくださいね」と言ってくださっているにもかかわらず、同じコンビニの敷地内のわざわざ端っこだったり、中々人の目が届かない様な「どうしてわざわざこんなに人が見つけにくい場所に捨てたの!?」と思わされてしまう様な場所に捨てられているゴミも多くあります。                          私自身、見つける機会の多い「タバコの吸い殻」に関しても、「100歩譲って歩きタバコをするなら携帯灰皿を持って歩く」、「車で吸っているなら責任を持って自分の車の灰皿に吸い殻を捨てる」など、人として最低限守るべきルールがあると思います。しかし、それが毎日毎日、道端や車道に多く捨てられ続けているのです。                          何事においても、「誰しもが自分の行動に伴った責任を持ち、それを実際に行動に移せばこんなことは起こらない」のでしょうが、どうもそうはいかないみたいです。

 

ここまでお話してきたのは、私の実体験に基づいた「私の住んでいるエリアのみでのお話」です。ではこれを、「町全体・市全体・県全体・日本全体・別の国・世界全体」といった規模で考えていったらどうなるでしょうか?                                毎日どれ程多くのゴミが、世界には「ゴミ箱ではない不適切な場所に捨てられ続け、増え続け、それが我々の日常の一部となってしまっているのか」が想像できると思います。                            これらは予期しない不可抗力で発生した出来事ではありません。     「一部の人間が自分たちの意志で、意図的に行っている結果」です。 

今回のトピックは「道端のゴミ拾い」という私自身の実体験に基づいたお話となっていますが、勿論「道端だけ」に限った話ではありません。    「森・川・海」など様々な自然を汚し、生態系を壊し、そこに生きる動物達や自然を苦しめているという現実があります。人間の身勝手なゴミの投棄により、被害を受けてしまった動物や自然の映像を見たことがある方も少なくはないのではないでしょうか?                             「個人」で捨てるポイ捨だけが問題なのではありません。産業廃棄物の不法投棄など様々な問題も含め、「個人」・「企業」・「社会全体」の全てが「1つの正しい方向」に目を向ける必要性があるのです。            これらは決して「他人事」で終わらせていいお話ではありません。   

 

いつから我々人間は、「自分達の幸せ・利益・生活のしやすさ」といった「己の我欲」だけを優先した生き物になってしまったのでしょうか?      我が物顔で他種族の生物や地球そのものを傷つけてしまっても、何も感じない「無神経な生き物」になってしまったのでしょうか?                               今一度、「人間としての在り方」、「地球は決して人間だけの所有物ではない」という観点に立ち返るということ。そして、「それを踏まえた上でどういった生き方をして行くべきか」という事を、「人間全体・社会全体」として真摯に考える必要のある時期に来ているのではないか、と個人的には強く感じます。