〈ウマ娘〉から知った、現実の競馬に伴う馬達の命。

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こんにちは。リオ / Rioです。

先日は、「〈身近な環境でさえポイ捨てが無くならない。なら、世界ではもっと・・・。〉というお話。」というテーマを基に記事を書かせていただきました。

本日は、「〈ウマ娘〉から知った、競馬に伴う馬達の命」というテーマを基にお話をさせていただければと思います。                 よろしくお願いいたします。

お願いします.

本題に入る前に少し寄り道を。                     皆さんは「ウマ娘」という作品をご存じでしょうか?            Cygamesというゲーム会社が原作を手掛けており、現在はアニメの2期が放送されています(2021年3月23日時点)。最近ではアプリゲームもリリースされており、かなり好調の様です。アプリゲームはつい先日リリースされたばかりにもかかわらず、セールスランキングで1位を獲った程です。                                

このウマ娘という作品をご存じない方々にどういった作品かをご説明させていただきますと、現実世界にある「競馬」で実在した馬を擬人化させ、「王道スポコン系のストーリー」が展開されていくお話となっています。                この作品は実際の競馬ファンをも多く惹きつけている様で、その理由は「基本的に史実に基づいて物語が作られている」、「実際の馬の性格をキャラクターに反映させている」、「ジョッキーネタやコアな競馬ネタなどをアニメに取り入れている」など、競馬ファンをも唸らせる作り込みレベルの高さ、そして制作人側の「競馬=作品への情熱」が物凄いという部分が大きい様です。                                 私自身、この作品を見るまでは実際の競馬には一切興味のなかった人間だったのですが、そんな競馬素人でも物凄く楽しめてしまうくらいに素晴らしい作品だと感じます。                            ちなみに現在放送されているアニメのお話は、奇跡の名馬と言われている「トウカイテイオー」という馬がメインのお話となっており、ストーリーとしても非常に熱い構成になっています。かつて天才と呼ばれ栄光を欲しいままにしていた主人公が、幾度の骨折から不審に陥り、通常であれば「復活はないと思われていた中、奇跡の復活を果たす」という、まるで少年バトル漫画にありそうなストーリーですが、なんと実在した史実が基になってます。こういった部分が競馬ファンや、競馬を全く知らなかった層の双方を魅了している大きな要因の1つなのかもしれませんね。

 

そしてここから本題に移ります。                    大前提として始めにお伝えさせていただきたいのですが、私はウマ娘という作品が大好きです。胸が熱くなり、目頭が熱くなる様なストーリーには心を震わされました。そして、これからお話することは「ウマ娘」という作品に対してのものではなく、その元ネタとなっている「競馬」に対してのものとなります事をご了承ください。                   「これだけ素晴らしい作品が生み出され認知度が上がっているからこそ、同時に我々人間が知っておかなくてはならない事柄がある」と考えています。

 

何事においてもそうかもしれませんが、一見華やかそうな世界の中でも「光の部分と闇の部分がある」ということがよく言われると思います。これは現実の「競馬」においても、この言葉があてはまる部分が存在するのです。                                    上述したトウカイテイオーという馬の様に、私を含め競馬を全く知らない方でも「あぁ、何となく聞いたことがある名前かもしれない」というくらいに名を轟かせて活躍した馬も存在すれば、「全く名前を聞いたことすらない」という馬も存在します。                        そして、「名を轟かせた馬 (活躍した馬)=必ず引退後も幸せに余生を過ごせる」というわけではなく、「競走馬として生まれた馬達が天寿を全うできる確率は1パーセントに満たない」とも言われているのが現実です。                              *実際、引退後は乗馬クラブなどに引き取られ、大切に育てられている馬もいます。しかしその数は決して多いとは言えません。

この競走馬たち。彼らは毎年約7000頭生まれてくるとされています。そして競走馬として育てられる過程での事故や怪我、レースで結果を残せなかったなど様々な理由で引退を余儀なくされる馬は年間約5000頭。      そんな彼らが「その後どこへ行くのか」、「どうなるのか」を皆さんはご存じでしょうか?                             JRA日本中央競馬会)のホームページでは、「○○という名前の馬は○○乗馬クラブに行った」といった情報を共有さているそうですが、「'その乗馬クラブに行った後' どうなったか」という点について言及はされません。       端的に言うと、「その後」は「殺処分され、馬肉にされて売られてしまう」というのが大半なのです。

馬の寿命は約20年、中には30年生きる馬もいるそうです。そして「競走馬として活躍できない」、と''人間から見切られる''4歳以降になると、殺処分の対象になってしまうのが通例です。
「かつて活躍した有名な馬」でさえ、「引退後、あの馬はどこに行ったんだ!?」といった様に、誰も把握できていないという現実がごく普通に起こっています。

「こんなことが許されていいのか」と心から思います。

*大前提として、こういった問題に危機意識を持ち、競走馬から引退後の馬達に、「第二の人生を送らせてあげたい」と真摯に向き合われている法人様もいらっしゃいます。ただ、その数は圧倒的に少ないのが現状です。

 

考えてみてください。                         まず、毎年生まれてくる7000頭の馬達。人間側が彼らの意志とは一切関係なく、「競走馬」として一方的に育てるためだけに意図的に繁殖させ、「1つの命」を誕生させています。                      そんな人間の都合で1つの命が産み落とされているにもかかわらず、いざ「レースで勝てない」と判断されたのなら「もう要らない」、育てている過程で怪我をしてしまったのなら、「もう使えない」というレッテルを貼り、当たり前の様に切り捨てます。                               これが「人間の所業」と言えるでしょうか?個人的には「悪魔の所業」の様に感じます。                              馬は機械や物ではありません。生き物です。1つの命を持った生命です。我々人間となんら変わりはありません。

 

馬にも様々な性格があります。大人しい子・活発的な子・走るのが好きな子・ゆっくり歩くのが好きな子。                      百歩譲って、「そんな馬達の様々な性格を見極めた上で競走馬にする」という選択肢を取るのならまだしも、「競走馬にするためだけに繁殖させ育てる」という一方的な「人間のエゴ」で生み出した命に対し、「使えなくなったらもう要りません。その後の事はどこでどうなろうと知ったこっちゃありません」というのはあまりにも酷過ぎる、「命への冒涜」に他ならないのではないでしょうか?

これを人間に例えてみたらイメージしやすいと思います。             「あなたはかつてプロのスポーツ選手でした。今度生まれてくる子供がいます。その子供にもあなたが携わっていたスポーツをやらせ、プロのスポーツ選手に育てたいと思っています。しかし、いざ子供が生まれ接していくと運動神経が無く、プロなんて夢のまた夢だというくらいの〈素質のない子〉だという事が分かりました。性格自体も競い合うことが苦手な子で、スポーツ事態に向いていない様です。あなたはその子を見捨てて、見切って、殺しますか?」                               やっていることはこれと全く同じです。

おそらく、「いやいや、殺しはしないよ」と大半の人が言うでしょう。その理由として、「自分と血の繋がった子供だから」、「いくら才能がないと分かっても殺すまではしない」、「人を殺したら犯罪になるから」、「人間が相手だったらそんな事しないし出来ない」、などいろいろなものがあるでしょう。                               ではその対象が「馬」ならいいのでしょうか?「動物」ならいいのでしょうか?                                 それは違うと思います。  

まず、そもそもが自然の節理に沿って生まれて来た命ではありません。「人間が意図的に自分たちの都合で生み出した命」です。加えて言うのであれば、その「意図的に生み出した命を使って、お金儲けするために生み出している」のです。                                これは私が過去に書いた下記の記事、                        

という3つの記事においても、「動物と人間との命の格差」というテーマに触れて書かせていただいているので、是非目を通してみていただけますと幸いです。

もしかしたらここで、「じゃあ家畜動物はどうなるんだ!家畜動物を育てて生計を建てている人達もいるじゃないか!」という意見もあるかと思います。(この点につきましても上記の3つの記事で触れさせていただいています)                                   仰る通りだと思います。’’動物達の最期という結果のみに焦点をあてるのであれば’’その通りだと思います。食用の肉となり我々の元に届くのですから「結果は同じ」です。しかし、突き詰めればその本質は全く異なるというのが私の意見です。

確かに家畜産業に携わっている方々も動物を意図的に繁殖させ、育て、出荷し、生計を建てています。しかし、その根底にある大元の趣旨は、「最初から最期まで、我々が生かしてもらうための食糧として育てて、彼らの命に感謝して、彼らから命を頂く」という「根本の趣旨」があります。                             しかし一方で競馬は、「まず最初に人間の娯楽のため・ギャンブルのために育てる」という趣旨があります。そして、「馬達の意志など関係なく、有無を言わせず競走馬にするという人間のエゴを押し付け、鞭で叩き、調教するという過程」を挟みます。そして最後には、「レースで使えなくなったら殺処分して馬肉にする」という結果(本来の趣旨とは異なった結末=人間の都合で路線変更が行われた)に行き着くのです。                  「競走馬として使えなかったら馬肉に出来るし一石二鳥だ」という、「''保険''が伴った考え」がここに在る事が分かると思います。                             これはあくまで個人的な倫理観でしかないかもしれません。しかし、「自分達の思惑通りに育たなかったら切り捨てて殺してしまおう。まぁ、始めはそうするつもりはなかったけど」というのは、あまりにも人間本位で、馬達の心を弄び、踏みにじり、度を超えていると感じます。                                そういう意味で言うのであれば、「最初から馬肉として出荷するためだけに馬を育てている。競走馬としては絶対に扱わない」という趣旨の基に馬達を育てているのであれば、それは「道理が通っている」と思います。

 

極論ですが、競馬はギャンブルです。                  如何にその馬達やジョッキー達の背景に魅力的な背景や物語があろうと、競馬は「動物の命が伴ったギャンブル」です。                               大前提として私はギャンブル否定派ではありません。ですが、個人的な意見としてギャンブルは我々が生きていく上で決して必要な要素ではありません。無くても生きていけます。何故なら、「仮にギャンブルがこの世界になかったとしても、我々の命に影響を与えるものではないから」です。                                しかし一方で、人間は生きていく中で娯楽や快楽を求める生き物です。私自身もそうですし、それを否定できません。生きていく中で自分にとっての娯楽や趣味を見つけ、それに没頭する姿も素敵だと思います。ギャンブルもその1つだと考えています。パチンコ・カジノ・競輪・ボート、など様々なギャンブルが存在していますが、これらに興じるのも1つの娯楽だと思います。自分の生活に支障をきたしたり、親しい人に迷惑をかけない範囲内であるのであれば、お金を賭けること自体も何ら問題はないと思います。(お金を賭けずに競技そのものを楽しむ方もいらっしゃいますね)

しかし、上述した様々なギャンブルと競馬とでは大きな違いが1つあります。それは、「動物の命を使ったギャンブル」という事です。      (*)これはもちろん競馬だけでなく、その他の動物を扱うギャンブル全てに対して言える事です。                            「命」というものを平等に考える敏感な方であれば分かると思いますが、ここにどれ程の「人間のエゴ」が存在し、同時に「仮にそうするからには全うしなければならない人間側の責任があるか」という事を察せると思います。

上述したパチンコ・カジノ・競輪・ボート、などといったギャンブルのプレイヤーは人間です。そして、これらのギャンブルを行う際にプレイヤーが扱う対象となるモノは、「機械」や「物」です。私自身、物を大切にしないのは好きではありませんが、こういったギャンブルを行う際、仮に対象となる機械や物が壊れてしまったら買い換えれば済みます。もし可能であれば修理で対応が可能なことも大いにあるでしょう。                               しかし競馬は違います。その対象となる「機械=馬」が「壊れれば=怪我すれば」、「買い換えれば済む」という話ではありません。          極論、「怪我をすれば安楽死」となり、「レースで活躍できなければ行く先は殺処分」となるのです。                         これはいくら何でも命を軽んじ過ぎてやいないでしょうか?

 

ここまでの話を踏まえ、私は「競馬」そのものを肯定することは出来ません。しかし、「競馬自体を'今すぐ'無くしてしまえばいい」とも思えません。何故なら、既に「競馬」はこの世界に存在してしまっており、この業界に携わり生計を建てられている方々も多く存在しているからです。             ただ、現状の「馬に対する扱い」や「1つの命に対する重みの認識や対応・制度」という部分をより深く・強く意識し、業界ないし組織として変わる必要があると強く感じます。                          

「全ての競走馬として育てられた馬達が、レース結果や怪我云々という事情は一切関係なく、天寿を全う出来るシステムを形成しなくてはならない」のです。

もしそれが出来ないのであれば、「業界自体存在しない方がいい」と個人的には思います。それが、我々人間が「エゴ」で動物の命を生み出し、競走馬として扱うことへの「当然の責任と義務」だと思うからです。

個人的な意見としては、まず馬主となる人間が「この馬を競走馬として育てたい。その中で怪我をしたり、結果を残せなくて引退することも大いに有り得るだろう。しかし、そうなった場合は全ての責任を持って私がこの馬の最期まで大切に育て天寿を全うさせる。その覚悟と資金はある」という人間にしか馬主となる権利を与えない事が最重要だと考えます。またその際、口先だけではなく有言実行してもらうために、「誓約書」を書かせることを絶対のルールとするべきです。                             こういった覚悟と資金力がない人間に、「動物の命を用いたギャンブルに携わる資格はない」と心から思います。そうすれば、まず年間約7000頭というおかしな数の競走馬が生まれてくることもなくなります。より命を大切にし、責任感を持つ馬主だけが参加する競馬業界になるはずです。                      一方で、仮に「それでは競馬業界が破綻してしまう」、「そんなこと出来るわけないだろ!だったらお前がやってみろ!」という意見もあるかもしれません。だとしたらそれは、「それだけの覚悟がなく、競走馬をお金稼ぎの道具としか考えていない馬主がどれだけいるか」ということが分かる1つのキッカケにもなるはずです。                          また馬主だけでなく、JRA側も引退した競走馬の余生を守るための「基金や施設」を作る必要があると考えます。                  「人間のエゴで動物の命を扱おうとしているにもかかわらず、それに対する覚悟や誠意。そして引退後の彼らのケアを視野に入れていない運営方針など言語道断」だと個人的には考えます。

そしてもう1つは、農林水産省JRAの「競走馬の命に対する認識を変える」ということが重要だと考えます。                     JRA農林水産省の下に設立された組織です。そしてその目的は、「競馬の健全な発展をはかって馬の改良増殖、その他畜産の振興に寄与する」というものになっています。                             要は、「馬は産業動物でどちらにせよ増やさなければならない。一方で競馬はギャンブルとして人を集め金を生むことが出来る。だったらそれを利用し、'まずは競走馬に⇒使えない馬は殺処分して馬肉に' というプロセスを作ってしまえば一石二鳥だ」と言っているに他なりません。               極論、「競走馬は産業動物に過ぎない。結果的に金を生み、経済を回すことが出来れば何でもいい。その過程に在る'倫理観や道徳観'などはどうでもいい」という、「’’国としての認識’’が確実にそこに存在している」という証明でもあるのです。                                  この、「1つの命に対して、恐ろしい程の軽視が出来てしまうという感覚」は、人類全体として変えていかなくてはいけないはずです。

                       

まとめの段階に入りたいと思います。                        ここまでは、引退後の「殺処分」という扱いにフォーカスしたお話として進めてきましたが、これは「引退後の扱い」だけが注視されるべきという事ではありません。競走馬として育てられている過程でもある、「調教」に対しても言える事です。

上述しましたが、競走馬にも様々な性格があります。穏やかで優しい子だったり、競いあったり競争するのが嫌いな子もいるはずです。そもそもが競走馬に向いていない馬達が沢山いるのです。                   例え話ですが、「動物と会話が出来たり、動物と正確な意思疎通ができる人間」が存在し、毎年約7000頭の馬達に「君は競走馬になりたい?大変なトレーニングが待ってるよ?」と質問し、「やりたい!」・「やりたくない!」という会話が「人間と馬との間」でなされており、その意思が実際に反映されているのであれば現状は幾分はマシな状態にはなるでしょう。       しかし現実はそうはいきません。                         だとすればそれはつまり、「馬達の性格や意志は完全に無視し、人間の一方的な決めつけ・エゴで強制的に調教している」ということに他なりません。

実際にあった出来事としてこういった事も存在します。             怪我というのはレース中だけではありません。馬達にとってかなりキツいトレーニングを調教師が毎日強いり、その結果、それまで蓄積した疲労で一気にガタが来てしまう。そして骨折や治療不可能な状態になってしまい、最終的には安楽死、という事も幾度と起こっています。               これは逆を返せば、「そういった有無を言わせない調教をしていなければ。馬達を労わったトレーニングをしていれば。極論、競走馬という存在を人間が生み出していなければ。その馬達はもっと長く健康に生きることが出来た」という事です。

「人間が彼らを死に追いやっている完全な加害者」なのです。

「馬達の性格・向き不向き・調教中の馬達の気持ち」を一切無視し、人間側の意志を強制させる。これはもはややっていることは「奴隷を扱う事」と何ら変わりありません。   

人間が人間に対して同じことが出来ますか?               「人間が人間に何かを強制させ、従わせるために鞭を打ち、使えなくなったらその人間を処刑する」。                        出来ませんよね?ですが、恐ろしい事にその対象が「馬=動物」となると出来てしまうのが人間です。                                                          この「命に対する感覚の差」や「命の重みの認識の違い」というものは、本当に恐ろしいものだと個人的には感じます。

「1つの命に対して敬意と誠意を示し責任を取る」。                  そんな当たり前の事を当たり前の感覚として誰もが持ち、そんな人間で溢れる世界に少しずつでも近づいていけることを切に願います。