〈アメフト漫画から学んだこと〉 かつては嫌いだった「とあるセリフ」が、時が経ち別の視点をくれたお話。

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こんにちは。リオ / Rioです。

先日は、〈「流れ星」と「人生における巡り合わせ」〉というテーマを基にお話をさせていただきました。

本日は私の好きな漫画に出てくる「とあるセリフ」があるのですが、「かつては嫌いだったセリフが、様々な経験を経て大人になって聞くと、また形を変えて新たな視点をくれた」というトピックに基づいてお話させていただければと思います。                              よろしくお願いいたします。

お願いします.

私の好きな漫画で「アイシールド21」という漫画があります。この物語は、「ひ弱でイジメられっ子だった主人公のセナという少年が、高校入学を機にアメリカンフットボールを始める」という所から始まります。しかし、私が今回のトピックで扱いたいのは主人公のセリフではなく、主人公が所属するチームのライバルチームの選手のセリフです。

このライバルチームのエース選手に「通称:キッド」というキャラクターがいるのですが、その選手の口癖で「良すぎるとロクなことがねぇ」というセリフがあります。この言葉はそのシチューエーション毎によって少し意味合いが変わるのですが、基本的には「期待するとロクなことがない」、「買いかぶられ過ぎるとロクなことがない」といった様な、「良い事を期待し過ぎると・期待され過ぎると、結果としてロクなことが起こらない」というニュアンスで頻繁に使われていた言葉になります。今思えばこれを高校生が言うわけですからかなり斜に構えていますよね。

私はアイシールド21という漫画が大好きでしたし、このキッドというキャラクターも割と好きでした。しかし、この上述したセリフだけは嫌いでした。というのも、私はネガティブな言葉が嫌いだったからです。当時私は学生で、逆にポジティブな言葉が大好きでした。あ、特に今で言う「意識高い系」だったとかではないですよ(汗+笑)。                    なぜなら、ポジティブな言葉を耳にしているのと、ネガティブな言葉を耳にしているとのでは気分が変わります。もっと言えば、例えば自分が見据えている目標や夢があり、そこに突き進もうとしている時に「ネガティブな言葉と共に夢に向かおう」とは多くの人は思わないでしょう。単純にそんな感じです。                                何より、私はどちらかというと元々がポジティブな思考の人間だったので、それと真逆のセリフを言われることで自分の思考を阻害されている様な気分になり、それが嫌だったのかもしれません。

そういった訳で、当時はよく「何でこのキッドはこんなネガティブな事ばかり言うんだ・・・。自分が良い状況下に居るならそれを純粋に受け入れればいいだけなのに!なんでそこでネガティブになるんだよ・・」、「そもそも言ってることがよく分からん!現実に良い事が起こっているなら、そのまま期待し続けろよ・・・!」なんてことをよく思っていたことを今でも覚えています。                              しかし時が経ち、社会人になってからこのセリフをふと思い出したことがあったのですが、そこからこのセリフの捉え方が変わりました。

                  

当時、私は「自分のやりたいことを仕事にしたい」という想いから、最終的に自分の求める業界・業種の職に就くことが出来ました。「どうせ生きるためにはお金を稼いで働いて生きなければならないなら、人生の大部分を占めると言われる仕事の時間を自分がやりたいと思えることに時間を割いていた方がよっぽど有意義だ」と感じていたからでした。大学に行きはしたのですが、学んだ分野は「何となく」で選んだ学部だったこともあり、大学卒業後は留学し、それまでとは全く別の方向性に向け歩み始めました。            進路変更を経て、その新たに進んだ道の業界に幸いにも就職することができ、「よし!これから頑張るぞ!」と期待に胸を膨らませていたのですが、そんなワクワクも束の間、業界ゆえの洗礼を受けることになります。           私が居たのはデザイン関係だったのですが、其処は所謂「ブラック」と言われる要素がふんだんに詰め込まれた環境下でした。最終的には退職し、「自分のやりたいことをやる以前に、そもそもの大前提となる労働環境が全く整っていないなんて組織として破綻している・・」、「自分のやりたいことを仕事にしたいと目標を定め此処まで来たが、それを叶えるためには自分自身をどれ程犠牲にしなければならないのだろう・・・」と面食らってしまい、とても悩んでしまいました。                            私はこれまでは何かしらの目標が常にあり、それに真っ直ぐに突き進んできたタイプの人間であったこと。また、人や社会に騙されるという経験がそれまで一切なかったことから、「目標は叶えたけれど待っていた現実はこれだった・・・。こんな環境に自分を犠牲にしたまま居続ける必要があるなら、もうこんな場所には居たくない・・。自分はこれからどうすればいいんだろう・・」と、目標がなくなり目の前が真っ白になってしまいました。                         その後、転職活動をするも全く上手くいかず、精神的にかなり病んでしまった時期を迎えることになります。

 

そんな精神的にとても辛く、落ち込んでいた時期に何故かふと上述したキッドのセリフを思い出しました。                     「期待し過ぎるとロクなことがねぇ」という言葉です。          私はそれまで何事においても「期待しかしない」性格でした。実際にその期待に裏切られたことはなく、仮に本来自分が望んでいた目標がありそれが叶えられなかったとしても、その後すぐに何か違う形で、且つ自分の納得できる形でそれに近い目標を達成することが出来ていたからです。ですが、その時初めて挫折というか、もう自分ではどうすることも出来ない失望や絶望もあるのだという事を知り、経験し、学びました。

転職活動が上手くいかずいくつものお祈りメールを受け取るたびに、返事が来るまでの間、期待に胸を膨らましていた自分の心が裏切られ、ズタボロになっていくのが分かりました。その時、「あぁ・・自分が期待し過ぎているから、結果が上手くいかなかった時にこれ程傷つくのか・・・」という事を初めて「感情として学んだ」のです。                      「期待の反対は失望だ」、「希望の反対は絶望だ」、「希望を持つから絶望するんだ」などという言葉をそれまでに幾度と聞いたことはありました。しかし、こういった言葉を聞くたびに「何を言ってるんだ・・・?希望は希望。絶望は絶望。別物だろ。何で一緒に考えるんだ!?」といった感じに、それまでは「あまり理解できない言葉」くらいにしか思っていなかったのですが、この時初めて直にその意味を体感した気がします。                 「期待や希望を抱いているから、その期待や希望が叶えられなかった時に傷つき、裏切られた様な気持ちになり絶望する」。               まさに「期待し過ぎるとロクなことがねぇ」でした。

 

ここまでの話を聞くと、「ネガティブな意味でキッドの言葉に共感した」と捉えられるかもしれません。しかし「最終的には」そうではありませんでした。                                勿論当初はこの言葉を単純に受け取り、ネガティブなそのままの意味で捉え、「世の中上手くいくことばかりではないんだな・・。キッドが正しかったのかもしれない・・・」、「当時は嫌いなセリフだったけど、いざ自分が苦しい状況下になると納得できてしまった・・。まさかこんな日が来るなんて・・・」といったことばかり考えていました。ほぼ自分が起きている時間帯であれば、無意識にこのキッドの言葉を思い出してしまうくらいにはこのセリフが頭からずっと離れずにいました。

しかしある日、ふと「あれ・・?この言葉ってもっと俯瞰的に見るとポジティブな意味合いにも捉えられるんじゃないか・・?」と何故か思ったのです。あまりにもこのセリフが頭から離れず、このセリフのことばかりを考え過ぎていたせいでしょうか。                                自分が何かに期待をしていた際、その期待と相反する結果になった時はとても裏切られた気持ちになり、失望し、傷付きます。しかし、このキッドのセリフをある種、俯瞰した様な視点で捉えると印象が全く変わりました。こんな感じでしょうか。

「確かに期待し過ぎて良い結果にならなかった時は辛い気持ちにさせられてしまうし、絶望に暮れてしまう時すらある。大前提として '失望や絶望したいわけではないし、それを望みもしていない' 。失望や絶望という感情を味あわずに済むのならそれに越したことはない。期待から生まれる '希望が叶えられた先の未来のイメージ' を持ち過ぎるのではなく、現在に意識をフォーカスしていれば大きく傷つくこともないのではないか? '希望が叶えられた先の未来のイメージ' を持つという事は、現在ではなく未来に意識をフォーカスしていることになるのだから」                        「自分は今 '現在' に居るのに、'未来' に向けて意識をフォーカスしているからそれが '期待' になる。ならば、結果が出るまでの期間は 'ただの結果が出ていない過程の時間' という捉え方をすれば、結果が出た時には '結果が出た今' にフォーカス出来るはず。未来に意識を向けて良い結果を期待し続けている状態ではなく、'結果が出た時点で初めてその''今''を見つめ、結果を受け止める' ことが出来れば、仮に悪い結果だったとしてもその結果を受け入れやすくなる」

これは私が本当に苦しい時期に居た際、「深い所まで突き詰めると、あのセリフってもしかしてこういう捉え方も出来るのかもしれない・・・」と勝手に閃いたことなので、作者の真意云々は関係なく、あくまで私個人の解釈の仕方です。しかし、「こういう解釈も出来るな」と自分の中では腑に落ちた出来事でした。                                また同時に、自分自身で起こす行動力や努力も大事ですが、「これだけ自分はしてきたのだから絶対に大丈夫のはず・・・!良い結果が出るに決まっている・・!」といった期待を抱くのはもう止めようと思いました。そうすることで、「やることはやった。やれることはもうない。ならもう後は成り行きに任せよう」くらいの心持ちで居る事の、「精神的な居心地の良さと、良い意味で変に感情を左右されない状態で居れることの大切さ」に気付いたからです。                               簡単に言ってしまうと、「一喜一憂」しなくなったのです。

 

今回私がお伝えしたいことは、「自分の行った行動に対して期待はしない方がいい。期待が裏切られた時に辛い気持ちになってしまうよ」という事ではありません。                               むしろ「期待」という自分自身を高揚させてくれる感情はとても大切なモノだと思いますし、何事においても全く期待をしない人間なんて聞くととても寂しい人間に感じてしまいます。それに本気度の高い挑戦こそ大きな期待も自然としたくなるでしょう。                         ただ、そこにあるのは「良くも悪くも 'ただの結果という出来事' 」です。同じ「結果という出来事」があったとしても、その結果から何をどう感じるかは人によって異なります。                          物凄く極端な例えですが、とある結果に対し、その事柄に深く携わった人と、その事柄に少しばかり携わった人とでは、その '同じ結果という出来事' に対して感じる感情は大きく異なります。客観的に見れば 、「 '同じ出来事' であることには変わらないはずなのに」です。                     より俯瞰して言うのであれば、その「結果」は等しくただの「出来事」なのです。その結果に一喜一憂するのは、「その結果に対し、感情の伴った意味付けを自分自身がしているから」ではないでしょうか。           

自分自身の中で、「やることはやった。これで良い結果が出なかったらもうどうしようもない。お手上げだ。あとはもう成る様になれ!流れに任せます」くらいの気軽さで居れることの心地の良さは、決して悪いものではないと自身の経験から感じます。

あらゆる物事や出来事に対して、「常に何かしらの感情が伴った意味付け」を私たちは無意識にしています。俯瞰的な視点を踏まえた、その意味付けの程度次第(どれ程その出来事や結果に対して感情の伴った意味付けを自分自身が行うか)では、私達は「様々で複雑な '感情' 」というモノと共存し、より生きやすい人生を送れるのではないでしょうか。