〈動物の命〉BSEや鳥インフルエンザ等を患った動物達の殺処分について感じること。

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こんにちは。リオ / Rioです。

はてなブログを始めたばかりの私にとって記念すべき1つ目の記事になります。「何を書きたいか」をふと考えた際に、幼い頃から現在に至るまでずっと心にあったこのトピックを選ぶことにしました。

本日は、「〈動物の命〉BSE鳥インフルエンザ等を患った動物達の殺処分について感じること」というトピックについてお話させていただけたらと思います。                                (注)これから述べることは産業そのものに対する批判ではありません。それを取り巻く制度であったり、我々人間の立場から見た「認識」という観点からお話させていただければと思います。                  それではよろしくお願いいたします。 

お願いします.

私が小学生時代に見たニュースで、「狂牛病・殺処分」というタイトルを目にしたことがありました。その時、純粋にこう感じたことを今でも覚えています。「病気を患ってしまったのならどうして治してあげようとしないのだろう?人間が大変な病気を患ってしまったのなら病院に行くし、製薬会社は必死になって薬の研究を行い特効薬を生み出そうとする。もし完治しなくて長期的な治療が必要なら入院だって辞さない。でも、どうして動物にはそうしてあげないの?人間と差別してるの?」と。

私は幼い頃から動物と人間とで、「どちらが上でどちらが下」といったような概念が世の中にあることに何となく違和感を持っていました。人間自体同じ動物であり、ただの「1つの生物」であることに変わりはないと感じていたからです。そしてこの疑問は後に大学時代の教授によって解決されることになりました。

その教授は本当に知識が豊富で教養があり、心から尊敬できる私にとっての恩師です。どんな些細な疑問にも納得のいく答えを出してくれる方で、教鞭を取る立場にいる '先生' という存在の中で、心から「凄い・尊敬する」と感じたのは彼が初めてでした。                        私自身の「人格面」を両親に育てていただいたとするならば、この教授からは「人生の生き方」や「物事の捉え方や考え方」を教えていただきました。今日に至るまでの私の人間形成や人生観に大きな影響を与えてくれた方です。

ある時その教授の研究室を訪れた際に、かつて感じたこの疑問をふと思い出し質問してみました。「先生、昔 狂牛病って流行ったじゃないですか?その後は鳥インフルエンザも話題になり、大量に殺処分されたと報道されました。これらに関してなのですが、どうして人は病気を患った動物達を救おうとしないのですか?そもそもその殺処分される動物達は私達の '食' を満たすために育てられて、殺されて、命を頂くことに感謝しなければならない対象じゃないですか。それなのにその動物達が病気を患ったら ’殺せばいい’ で片付けるって・・・。それって命への冒涜だしおかしくないですか!?」と。

私のこの質問に対し教授はこう答えてくれました。           「シンプルに言う。それは人間側が '儲からない' から。」

それを聞いて私は「はっ」としました。同時にとても悲しい気持ちになったのを覚えています。世の中はそれらの動物達を救うためにお金をかけるよりも、彼らを殺処分してしまい、現存する健康な動物達を育てる方が「合理的」と考えているのだと。そこに「命の尊さを想う心」は無いのだと感じてしまいました。

 

確かにこの地球は人間が支配しています。支配という表現は語弊があるかもしれませんが、言語があり、知恵があり、技術があり、これらを駆使すれば他の動物より秀でることは容易いですし、自然災害以外のものであればこの地球上で人類の敵となるものは無いとも言えるでしょう。しかしそれは、「=人間は偉い」、「=人間は他の動物の命をないがしろにしていい立場にある」という解釈になるのでしょうか?私は違うと思います。

一般的には現代を生きる人々の認識として、「我々人間は生まれた時からこの地球のトップの存在(生物)として君臨している」という、誰が口に出さずともこの「無意識の共通認識」を多くの人が少なからず成長していく過程で持ち始めると思います。無論、この様な記事を書いている私自身も含めてです。                                人間としての毎日を生きていく過程で、「無意識下で他の動物を下に見てしまっている部分がある。しかしそこに悪意があるわけではない。」といった様なニュアンスだと分かりやすいでしょうか。

これまでの長い歴史の中で、私達人間の欲望から「自分たちが望むタイミングで自由に肉を食べたい」という欲求が生まれ、「家畜」というシステムを作りました。それは同時に、「生まれながらに最後は人間に殺され、食べられて命を終えることが決まっている動物達を意図的に生み出し続けている」という事に他なりません。これを改めて客観的且つ冷静に考えると、「物凄く残酷なシステム」を私達は作り上げ、それを感覚的には当たり前のように受け入れ、日常に取り入れてしまっています。

ですが一方で、私自身もこれを根本から否定することは出来ないでいます。なぜなら私はベジタリアンではありませんし、ヴィーガンでもありません。私自身お肉は好きですし、お肉の美味しさを既に知ってしまっています。 もし、「あなたは今後死ぬまでお肉を一切食べることが出来ません」といきなり言われたら、「それは困る・・・」という感情を素直に抱くでしょう。日常においても、「牛肉が食べたいなぁ」、「鶏肉が食べたい気分だなぁ」、「今日は魚がいいなぁ」、「スーパーに寄って買って行くか」などと自然に思ってしまうことも当然の様にあります。                      しかし同時に、「そういった動物達の命のおかげ」で我々の不自由のない食生活が成り立ち、「満たされた食生活」を送れているという事実を決して忘れてはならないとも思っています。                      必ず心のどこかに留めておくべき事柄であると。

 

今現在我々が生きているのは令和の時代であり、原始時代に自分達の命を必死に未来に繋げるために狩猟を行っていた時代とは訳が違います。特に日本においては幸いにも食べ物は豊富にあります。分け与えたり共有する意思さえあれば、世界の飢餓で苦しんでいる多くの人々も救えるでしょう。       私はコンビニでのアルバイト経験があるのですが、毎日とんでもない量の食べ物が廃棄されているのを目の当たりにしてきましたし、実際に廃棄してきた当事者でもあります。そのアルバイト先は、「廃棄物はスタッフが自由に持ち帰ってもいい」という有難い環境下であったため、私自身は命を無駄にしないためにも出来るだけ多く、そして自分が責任を持って食べ切れる量を持ち帰りそれらを頂いていました。しかしそれでも多くの「持ち帰られもしない廃棄物」は存在していました。(注)勿論、動物の肉を使用していない商品もありますが、「動物の肉が使用されていない食べ物なら廃棄されても問題ない」というわけでは当然ありません。                                  せめて、「人に殺され食べられるためだけに生まれてくる命があるのならば、その命をこんな形で・・廃棄物なんかにして終わらせたくない・・・。終わらせてはいけない・・・。」と強く感じました。              極端な言い方をしてしまえば、そんな大量の廃棄物が出てもなお、食料不足にはならない満ち足りた食生活が営まれる社会が形成されているにもかかわらず、「人間の欲を満たすためだけのシステム」を敢えて余剰に作り出しているという言い方も出来るでしょう。                    だとすれば、人間によって生み出された「家畜」というシステムや、その「家畜ありき」で回っている「世界・社会・経済」がある以上、もしその動物達が病気を患い苦しむようなことがあれば、人間がその命を救おうと行動を起こすのは当然の義務であり、彼らの命に対して敬意を示す行為は当たり前の事ではないでしょうか?

「彼らの命を意図的に作り出し、その命を頂いている我々人間の最低限の礼儀と感謝があって然るべき」ではないかと私は思います。          我々人間の都合で意図的に作り出された命に対して、「病気を治すのには多くのお金と労力がかかるからもう要りません」、「そんな病気を患った動物は誰も買わないし売りものにならない。処分してください。」、「健康な子達はお金になるので丹精込めて今後も育てます」。                     これらの言葉を同じ人間に対しても言えるでしょうか?          これではあまりにも「人としての道理」から外れているように感じてなりません。

物凄く極端な例を挙げてみるとするならばこんな感じでしょうか。                               「Aさん家には子供が10人います。その内のお子さん5人が病気を患い苦しんでいます。この病気は感染したとなると世間的にも良くは見られません。さてこの子供達の親御さんはこの後どういった行動を起こすでしょうか?」                            純粋に子供達を愛し育てている親であれば、すぐにその5人のお子さんを病院に連れて行き薬を貰い、看病するはずです。               しかしもしそこで、「治療をするにしても治療費がかなり高くなりますし完治までの期間もそれなりにかかります。それに、この病気が治ったとしても世間がこの5人のお子さん達を見る偏見の目は変えられない可能性もあります。治療するより見捨てた方が良いと思いますよ。そちらの方が合理的です。」と医師に言われたとしたら親御さんはどういった気持ちになるでしょうか?                               「なるほど。では治療はしない方がいいですね。お金がかかる上に、この子達5人はこの病気にかかってしまった以上、今後も世間から良くは見られないだろうというのは同感です。うちにはもう5人子供がいるのですが、そっちの子達は至って健康体なのでそちらの子達を大切に育てていきたいと思います。」なんてことを言うでしょうか?こんなことを言われた子供達は一体どんな気持ちになるでしょう?子供を心から愛している親であれば、こんなことを言われたら計り知れない程の怒りを感じるに違いありません。                     しかし、これが「人間」ではなく「家畜」という概念に置き換わったとしたらどうでしょう?おそらく多くの人は感じ方が変わるのではないでしょうか。同じシチュエーションにおいて、対象が「人間」ではなくなっただけでです。また、これを「ペット」という概念に置き換えてみてもいいのかもしれません。「対:人間」に抱く感情と同じ感覚を抱くのではないでしょうか?                               「個人的な愛情を注いでいる生き物」と捉えるか、「何の愛情も注いでいない '自分とは関係のない生き物' 」として捉えるかの違いで、その認識は大きく変わります。                              本質的に、命とはそんなに簡単に区別され、差別されていいものなのでしょうか?

これが「人間」と「他の動物」との間に存在する、「捉え方・捉えられ方」と「認識の仕方・認識のされ方」の '違い' だと個人的には感じています。           本来は同じ一つの命であるはずなのに、どこでこういった感覚が我々自身の中に生まれ、それを良しとしてしまっているのでしょうか?

 

 

ここまで私自身の考えや感じてきたことをトピックに基づいて書かせていただきはしましたが、このトピックについての明確な解決策は私には分かりません。上記の文章を読み、「ただの偽善者だ」、「それはあくまで感情論に過ぎない」、「そんなことをして誰が得をするんだ?企業や生産者は慈善活動でやっているわけではない」、「お前も肉を好きで食べてるんだからツベコベ言う資格はない」、「現実問題、当事者の方々も辛い。実際に救うための費用をかけると赤字になって潰れてしまう」、「当事者じゃないからそんなことが言えるんだ」、などといった様々な意見も当然あるでしょう。         これらの意見はごもっともだと思いますし、こういった疑問や問題意識を感じながらも、解決策を生み出すための行動を何も起こしていない時点で私はただの偽善者だと思います。

しかし同時に、多くの命を扱い、その命を頂いて生き長らえている私達にとって、「そういうものだよ」、「仕方のない事だよ」の一言で片付けていい問題であってはならないとも感じます。

私自身が出来る事としては、「現状のシステムが変わらない限り動物達のお肉は生産され続けるし、廃棄物もゼロには絶対にならない。ならばその我々の命を繋ぐための食料となってくれた命に感謝して、少しでも消費に貢献し、美味しく頂く」、「頂くからには絶対に残さない」、という事を心掛けていくことが今の私に出来る精一杯の様に感じます・・・。             (注)ここでの「現状のシステム」が指す意味としては、「家畜のシステム」を指すものではなく、それを取り巻くあらゆる「環境」そのものを指しています。例えば、現在法律上では動物は「物扱い」にされていることや、上記のような理由で殺処分対象になってしまう動物達を国として救うような法律や制度が整っていないこと、廃棄物削減に対する国民や国家としての意識の問題など、現状では改善に向かっていない状態を指しています。