昨今のコ〇ナ騒動が関連して、〈マスクのポイ捨て〉が頻発しているという事実。

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こんにちは。リオ / Rioです。

久しぶりの投稿になります。結構時間が空いてしまいましたね。      昨今、世間では相も変わらずコ〇ナ関係でゴタゴタしている様に感じます。そんな中、この「コ〇ナ関係の問題」と「私が過去に書いた記事」とが関連して、「悪い方向性への変化を感じた出来事」がありましたので、今回はこのトピックについてお話していきたいと思います。   

(*)そもそもの前提としまして、私は「コ〇ナの菌」が一体何なのかすらわかりません。「水やコーラにすら陽性反応を出すP〇R検査の存在」や、ワク〇ン接種から体調を悪化させ、そちらの方が体調不良や重傷者を出している始末・・・。謎ばかりを感じています。                  よってこの記事は、「世間一般ではコ〇ナを恐れ、それゆえにマスクを着用する環境が構築されている状態⇒そこから派生する思考や思想」という観点から書かせていただきたいと思います。

よろしくお願いいたします。

お願いします.

 

過去に「〈身近な環境でさえポイ捨てが無くならない。なら、世界ではもっと・・・。〉というお話。」というテーマの記事を書かせていただいたことがあります。

こちらの記事では主に、「私の身近な環境ですら多くのゴミが落ちている」・「私はランニングを日課としていて毎回同じルートを通るが、自分がゴミを拾っても次の日には〈また新たなゴミ〉が発生している」・「〈自分さえ良ければ・自分の身の回りさえ綺麗になれば良い〉といった考え方を改めたり、そもそも地球や自然の事をもっと考えるべきではないか」といった内容について書かせていただきました。                             残念な事に、それ以降も相も変わらずゴミは減ることなく発生し続けているのが現状です・・・。

しかし、そんな「減る事のないポイ捨てゴミ」の種類に、「今までは無かった種類のポイ捨てゴミ」が最近では新たに加えられました。とても悲しい事です・・・。

その新たなゴミとは・・・「マスク」です。

ここから書く事はあくまで私個人の推測であり、確証のあるものではありません。しかし、「この考えで、あながち間違ってはいないのではないのかな?」とも感じています。                           それでは具体的にお話を進めていきましょう。 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー            ・マスクのポイ捨てゴミが急激に増加している                     ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー   

この今までは一切なかった「マスクのポイ捨て」が最近急激に増えています。私の体感上では明らかにです。

まず、この理由。                            これは明らかにコ〇ナ騒動が影響しているでしょう。そして次に、「何故、マスクをポイ捨てするのか」・「何故家に持ち帰って捨てないのか」について考えていきます。                             私の考えでは、これは「自分の家に菌の付いた汚いものを入れたくない(コ〇ナの菌が付いた可能性のある物を家に持ち帰りたくないという思考)」・「汚い菌の付いた物を自分の家に入れて、それが原因で自分が感染したら困る」・「だったら外に捨ててしまえば自分が感染する可能性は無くなる」。
こんなところでしょうか。

繰り返しになりますが、これはあくまで私の推測であり見解です。実際にマスクをポイ捨てしている人を捕まえて、「どういった心理でマスクを捨てているんですか?」と質問したわけでもありません。              しかし、何年も同じルートをランニングし続けて、「そのエリアにはどんな種類のポイ捨てゴミが多いか」を把握している私が、冬のインフルエンザの流行シーズンですら、この「マスクのポイ捨てゴミ」に遭遇したことはまず記憶にありません。あったとしても片手で余裕をもって数えられる程度でしょう。

もし、仮に上記の私の推測が正しいとするならば、「こんなに悲しい事はない・・・」というのが素直な感想です。                   「コ〇ナ騒動ゆえのマスクのポイ捨て」が頻繁に発生している以前に、世の中では「ゴミのポイ捨て」は当たり前の様に蔓延しています。それは結局、「自分さえ良ければいい・自分の身の回りさえ綺麗になればいい・地球や自然の事なんて知ったこっちゃない」という心理が働いているからに他ならないからでしょう。

百歩譲って、これまでは「単に自分が食べ終わったり、使い終わったゴミをポイ捨てしているだけ」に過ぎなかったかもしれません。しかし、今回のマスクのポイ捨てに伴うその心理には、それ以上の「根深く・汚い・自分本位の深層心理」が絡んでいる様に強く感じます。

具体的には、「菌が付着した可能性のあるマスクを家に持ち帰りたくない」⇒「だったら外に捨てればいい」⇒「そうすれば自分は健康でいられる」⇒「その後の〈自分がそれ程までに恐れているマスクに付着した菌〉の事は、外であれば後はどうなろうと知ったこっちゃない」

この様な「深層心理」「思考回路」が根底にはあるのではないかと推測します。                                 これまでは「自分が使用して要らなくなった物が邪魔になった」⇒「場所を問わず捨てよう」というある種シンプルな心理であったはずが、「危険性を帯びた使用した物を早く自分から遠ざけたい」⇒「場所を問わず捨てる」⇒「その危険性を帯びた可能性のある物のその行き先や結末。加えて、その危険性を帯びている可能性のある物が、その後どの様に捨てられた自然の中で作用していくのかという〈その先〉を見据えた思考が一切ない」という思考が、「かなり危険な思想」にすら感じてなりません。

こういった「自分自身が感染を恐れ、触れたくすらない物を、自然に対して当たり前の様に廃棄する」。                               こういった思考に基づくこの様な行為は、この地球に住む人間として看過できるものではありません。これは明確な自分本位の思考であり、「自然に対する冒涜と、他者を重んじない行為そのもの」であると言う事が出来ると思います。                                 もし仮に「コ〇ナウィルスなるものが、地球上の生物を危険にさらす可能性がある物」だと仮定するならば、外の、自然の中に存在する動植物達はどうなるのでしょうか?仮に空気中にすら蔓延・拡散されるのであれば、人間にとっても危険な可能性をばら撒いている事に他なりません。                          昆虫たちは?野良猫は?野良犬は?山を切り崩され、住処を追われ、やむを得ず人間のコミュニティに足を踏み入れざるをえなくなった動物達は?                              彼らが捨てられたマスクの臭いを嗅いだり、舌で舐めたりする可能性もあり得るでしょう。                             植物だって我々人間と同じ様に、大気中や空気中の酸素を吸い呼吸しています。極端な例ではありますが、体に悪い菌だらけの個室に植物を置いて生活させたら、すぐに枯れてしまう事は明らかでしょう。

これらの行為は「対:人」だけではなく、「対:動植物」という視点も明らかに欠けている行為に感じられます。                 「対:人」にすら考えを及ばせられない人間が、「対:動植物」にまで考えを及ばせられる訳がないと言ってしまえばそれまでかもしれませんが、とても悲しく、虚しい事であります。                      その行為の背景に見える「その人間の思考」という部分に考えを及ばすと、「自分だけでなく、もっと全ての物事に対しても思いやりを持ってほしい・・・」と感じざるを得ません・・・。                    

                                   こんな身勝手な思考と行為が、現在世界を取り巻くコ〇ナ騒動の中で当たり前の様に「行われている」と考えると、とても虚しい気持ちになります・・・。

そもそもこの地球で生きている以上、ありとあらゆる所に菌は居ます。しかし、そのおかげで自分の免疫力を無意識の内に、且つ自然に高めることが人間は出来ているのです。そんじょそこらの菌では効かない強い体を人間は知らない内に作ることが出来ているのです。

賛否両論はあるかもしれませんが、これはコ〇ナに関しても言える事だと個人的には感じています。                         日々マスクを着用することを強いられ、本来であれば触れているはずの菌と接触しない(接触できない)環境下が社会に構築されているが故に、免疫力の低下へ。そして、マスクを挟むことで本来の自然な呼吸が出来ないことから、体も酸素不足になり体調の悪化や、上記と同じく免疫力への影響にも繋がる。                                 これらは悪循環以外の何物でもないでしょう。                    

そして今度は、日々着用しているマスク(仮にも着用しているのであれば、マスクにはお世話になっているはず)を「汚いから家に持ち帰りたくない」・「危険性がある」等といった理由から外にポイ捨て・・・。                                  「人としての礼儀」「自然に対する敬意」、そして「他者(動植物含む)への配慮や思いやり・誠意」といった、「本来、人間が持ち得るもの(特に日本人)」は一体どこに行ってしまったのでしょうか?

上記に記した3つの物を自然と持ち得ている人間であれば、ゴミのポイ捨ては勿論、今回テーマにしたマスクのポイ捨てなどの行為は絶対にしないはずだと個人的には感じます。

物事の表面的な部分ではなく「本質的な事」を理解し、その上で「人としてどうあるべきか」・「人としてどの様に行動するべきか」という事柄を、今一度真摯に向き合い改める必要がある様に感じます。

誰しもが当たり前の様にそんな事を、「感じ・考え・行える世界」になることを心から願います。

 

 

〈共存の大切さ〉動物と人間・自然と人間

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こんにちは。リオ / Rioです。

先日は「〈動物の命〉動物の交通事故現場を通して感じる事」についてお話させていただきました。                         その中で、「目の前で猫が車に跳ねられてしまった所に遭遇した」というお話をさせていただきましたが、この一件以外にも私は小さい頃から様々な昆虫や動物が亡くなってしまっている所に遭遇することがよくありました。    学校の登下校や遊びに出掛ける際、道端を何気なく歩いていたりすると、足元に昆虫や鳥が亡くなっている姿を発見することがよくあったりしました。その度に人に踏まれたりしない、且つ草花が咲いているような寂しくない様な場所を選んで埋葬していたのですが、中でもとても「珍しい動物」に遭遇したことがあります。                                そこで本日は、その「珍しい動物」を見た時に感じた、「人間と動物の共存の大切さ」というトピックについてお話したいと思います。                              よろしくお願いいたします。                    (*)日本語において動物に対し「亡くなる」という言葉を使うのは間違いとされていますが、個人的には同じ現象にありながら人間と動物とで言い方を変えることが理解できないので、あえて「亡くなる」という表現を使わせていただいております。まるで人間と動物とで命の重みに差がある区別の仕方の様に感じます。

お願いします3

先程、「私は小さい頃から様々な昆虫や動物が亡くなった姿に遭遇することがよくありました」とお話しましたが、そういった時は何故か不思議なことに、たまたま近くに公園や河原があったり、もしくは自宅近くだったりすることが多かった気がします。個人的にはそういった場所が近くにあると埋めてあげやすいので助かっていた記憶があります。                       ここで少し寄り道をさせてください。本筋とは少しずれるのですが、とても驚いた出来事があったので少しばかりお話させていただけますと幸いです。

そういった機会が数々あった中、物凄く驚いた出来事が起こったことがあります。その時私はバイクに乗っていたのですが、いきなり数メートル前方に正体不明の物体が落ちてきて、「ボトッ」という鈍い音を立てたことがありました。「え!?いきなり上から何だ!?どうした!?」と慌てて上を見上げたのを覚えています。バイクに急ブレーキをかけ、頭上を確認しましたが、電信柱はもちろん電線すらありませんでしたし、付近には建物や木すらない様な場所でした。バイクから降り、恐る恐るその落ちた物体に近付くと、それは「スズメ」でした。こんなことは初めての経験だったので、「空を飛ぶはずの鳥がどうして空から落ちてくるんだ!?」と頭が混乱したのを覚えています。心配して声をかけ、少し触って撫でたりもしてみましたが、ピクリとも動かず亡くなってしまっていることを悟りました。この時も割と近くに公園があったため、そこへ連れて行き埋めたことがありました。           

と、今回お話したいトピックの本筋である「珍しい動物」はこのスズメではありません。話が逸れてしまいすいません(汗)。つい文章を書き進めていたら「こんなこともあったなぁ」と寄り道してしましました。

 

話を戻しますね。                           これまで私が埋葬をお手伝いさせてもらってきたいくつかの生き物の中でも、「え!?どうしてこんな動物がここにいるの!?」と思わされた出来事がありました。そして、「その動物が我々人間の生活圏内で亡くなっていた」という事実から、私が感じた「人間と動物の共存」という部分について感じたことをお話させていただければと思います。

その出来事が起こったのは家のすぐ近所でした。徒歩だと歩いて1分もかからない場所で、そこそこ交通量も多い大きめの道路があります。時間帯は20時辺り、その日は用事があり車で出かけようとしていました。家を出発しその道路を横切ろうとした時、黒い物体が道路に横たわっているのが見えました。夜だったため姿ははっきりとは見えなかったのですが、「サイズ的にもシルエット的にもおそらく猫だろう」と思ったのを覚えています。その道路は時間帯により交通量が激しい時間帯とそうでない時間帯とで波がある道路で、丁度私が発見した際には幸い交通量が少ない時間帯でした。「このままではいけない・・!」と、すぐさま家に戻り、軍手をして移動させに行きました。

幸い体に外傷はなく、抱えた瞬間はまだ少し体の温かさを感じました。おそらく轢かれてしまってそう長くは経っていなかったのでしょう。しかし体は完全に脱力し、ピクリとも動きませんでした。口元をよく見ると少しだけ吐血した形跡があり、「あぁ・・もうダメか・・・」と感じたのを覚えています。しかし同時に、「あれ・・?この口の形、猫でも犬でもないぞ・・?」という事に気付きました。「口」が明らかに猫や犬のそれではなかったからです。暗い中目を凝らすと、それはなんと「狸」だったのです。        

それを知った瞬間、私の口から自然と出た言葉は「人間のせいでごめんね・・・」でした。                         

勿論、車に轢かれてしまう猫や犬がいるという事は知っていますし、彼らに対して同じことを一切思わないという訳では決してありません。しかし一概には言えないかもしれませんが、飼われている猫や犬は勿論のこと、野良猫にしても野良犬にしても、基本的には私達人間の生活圏内で生き、コミュニティーを築いています。それはある種、人間の生活圏内で生きることに多少の「慣れ」だったり、経験と耐性があると表現した方が分かりやすいでしょうか。                               しかし、我々の生活圏内に「狸」がいたという事は、この狸は野生の可能性が高いという事です。この様な本来いるはずのない野生動物が、我々の生活圏内にいることがおかしいのです。私の住んでいる場所は物凄い都会でもなければ、ものすごい田舎でもありません。すぐ側に山があり、川があり、野生動物を普段からよく目にするという場所ではないのです。確かに山はありますが、車で30~40分かけてやっと辿り着くくらいの距離で、野生動物を私の自宅付近で目にすること自体珍しい環境になります。そんな場所に狸が車に轢かれて横たわっていたのです。

これが意味することは、「生態系を破壊され、住処や食べ物を探して人間の生活圏に移動してきた確率が高い」ということになります。彼を見て「狸」だと認識した瞬間に感じたことがあります。                 今人間は当たり前のように我が物顔で、「地球は私達人間の所有物である」かの様に生活していますが、それは大きな間違いです。ここまで豊かで不便のない生活を送るには、自然という名の大きな犠牲がありました。そこには様々な植物や動物がいて、彼らの生態系を壊して、追いやった上に成り立っているのです。そしてついには自分たちの居場所が亡くなってしまった動物達が、彼らにとっては不慣れな近代化された街に降りて来ざるを得ず、我々の文明に殺されてしまっているという現実があるのです。                   こんなに虚しいことがあるでしょうか?

 

昨今、様々な動物被害のニュースを目にします。無論、被害を受けている農家の方だったり生産者の方の気持ちも察します。しかし、その事態を人間側の視点からのみ見ると、「被害が大きくなっては困る。早急に対処しなければ」と、動物達を追いやり山へ帰そうとする行動に出ます。勿論、「そのまま放置しておけばいい。被害なんて知ったこっちゃない」などとは口が裂けても言うつもりはありません。                                しかし一方で、ここに「動物側に立った視点」はあるでしょうか?     追いやった後、果たして「動物達の生態系が壊れているから彼らは来てしまったんだ。生態系を取り戻そう!」と、彼らのために行動を起こす '被害に合った側の人間' がどれ程いるでしょうか?ほぼ皆無ではないでしょうか。                   「被害に合わされたのはこっち(人間側)なのに、何でそんなことしなければならないんだ!」と思う人間が大半でしょう。              

しかしこれらは、「今の人間の生活が当たり前だと思っている人達。及び、大前提として '人間の意志が最優先されるべき世界である' といった認識を持つ '人間側の視点' 」に過ぎません。別の言い方をするならば、「本来、自然と動物と共存してきた有難みや感謝の心を忘れた、人間本位の考え方」という表現も出来るでしょう。

では動物側はどう思っているのでしょうか?              「人間が動物の言葉なんて分かる訳ないだろ!」という元も子もない意見は置いておいて、少なくとも動物側の視点に立って彼らの気持ちを想像することが重要だと考えます。少なくとも彼らの中にはこの様な気持ちを持っている動物がいると思います。

「いつも通り生活していたら、いきなり人間が来たんだ。山を切り崩されて、住処を追われて、食べ物も無くなって・・・。新しい住処と食べ物がありそうな場所を探していたらここに辿り着いた。」

 

勿論私は動物の言葉は分かりません。あくまで私が想像した動物の気持ちに過ぎません。これに対し、「お前の勝手な想像で話をするんじゃない!動物はそんな風に思っていない!」などといった意見もあるかと思います。しかし、現代の何不自由のない満たされた生活を人間が手に入れるにあたって、少なくとも「多くの自然を犠牲にしてきた」という事実は否定のしようがありません。                               これは山に限りません。海もです。埋め立て、汚し、生態系を崩し、それでもなお「人工的に生み出す養殖」という技術を駆使し、「人間の物質的な欲を満たすためだけの、'非自然的な方法' 」でそれを補っています。勿論これは「海」だけに言える例ではありません。

本来共存し、互いに助け合ってきた「自然・人間・動物」という関係性が、一体いつの日から「人間>自然・動物」という構造になってしまったのでしょうか?                                 そういった無意識の認識を心のどこかに持ち、植えつけられ、それに対し何の疑問も持たずに我が物顔で生きる我々人間とは一体何様なのでしょうか?

この認識や構造は絶対に変えなければならないと個人的には感じます。そもそも「地球」という惑星が存在しているおかげであらゆる生命体が生きていられます。                                様々な星々がぶつかって地球が誕生した時、そこにはまず「大気と海洋」があったといいます。それはつまり順序的にも自然が先に在り、次に生物が生まれたのです。生物が先に存在していて自然が誕生したわけではありません。逆に言えば、大気と海洋が無ければ生物は生まれて来ることすらできなかったという事になります。                                  これだけでも、「如何に自然が我々人間の大元となる重要な存在なのか」が分かるのではないでしょうか?                      もっと身近なもので例えるならば、「子供が先にいて母親が生まれてくるわけではありません。母親になる存在が先にいて、子供が生まれてくる」のです。

しかし、それをいつしか自分達の私利私欲のため、必要以上の自然と生態系の破壊を行い、「自分達人間がこの地球上で最上の存在として君臨している」といった誤った認識を持ってしまっています。同時に、この認識に対してほんの少しの罪悪感や違和感を持たないどころか、何の疑問も感じずに現状を受け入れ、当たり前の様に生きてしまっている人間が多くなっていると個人的には感じています。

 

「そもそも地球は自分達人間にとってどういった存在なのか。かつてはどういった存在であったか」。そして、「どうして自分達人間が生命を存続させる事ができていて、呼吸ができていて、生活できているのか」、といった様な、「根本的な当たり前」にこそ気付き、立ち返り、そこに意識を向けていく必要がある段階に来ているのではないかと個人的には感じます。

 

〈動物の命〉動物の交通事故現場を通して感じる事。

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こんにちは。リオ / Rioです。

先日は、「〈動物の命〉BSE鳥インフルエンザ等を患った動物達の殺処分について感じること」というテーマを基に記事を書かせていただきました。一番初めの自己紹介でも書かせていただいたのですが、特に扱うトピックのジャンルやカテゴリーなどは関係なく、自分がふと「書きたいな」と思ったことを書こうと思っています。                              「前回に引き続き動物の命系かよ、重い重い・・・」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、前回扱ったトピックからの派生で、「これも書きたいな」と純粋に思ったので、今回はこのテーマを扱いたいと思います。                「動物系しか扱いませんよ」、「命とか重い系しか書かないですよ」というわけでは全くありませんのご安心を(笑)                 では今回は、「〈動物の命〉動物の交通事故現場を通して感じる事」について書いていきたいと思います。                        よろしくお願いいたします。

お願いします2

皆さんは日常生活を送る中で、車やバイクに轢かれてしまった動物が道路に横たわっているのを見たことがあるでしょうか?            私自身は田舎県出身の車社会であったため、そういった光景は小さい頃から割と目にしていました。私は小さい頃からおじいちゃん・おばあちゃん子で、よく母に連れられ車で祖父母の家に遊びに行くことがありました。その移動中の道路に、「轢かれてしまった動物の姿」が横たわっているのを幾度も目にしたことがあります。それは、「外傷もなく、外見的には綺麗なもの」もあれば、「一瞬でも目を向けることさえ難しい」と思わされてしまう程のものもありました。                          その際、子供ながらに思ったことがありました。             

「もしこの轢かれてしまった動物達が人間だったら、どれだけ軽傷だろうと重症だろうと救急車をすぐに呼んで運ばれて治療されるはずなのに、どうして動物には同じことをしないのだろう?それに、人間だったら死んでしまったその遺体をそのまま道路の上に放置した状態になんて絶対にしないだろう・・・」という感情でした。                    轢かれて亡くなってしまった動物の現場を見た次の日には、その姿が現場から消えていることもあれば、数日間同じ場所にあり続ける事もありました。私がまだ幼稚園児だった頃、同じ現場に事故に遭ってしまった動物の姿が数日間変わらずにあり続けたことがありました。 

「ずっと同じ場所にいたらかわいそう!車にまた轢かれちゃうよ!」と母によく言っていたのを覚えています。

私が母にそう言うと、「ちゃんと連絡する所があってね。誰かがそこに連絡してくれたらこの子も大丈夫になるから。」と言われたのを覚えています。                                 当時はその「誰かが」という部分に何となくの違和感を感じたのを覚えていますが、実際に長くても2日か3日経てば、そういった現場から動物の姿がなくなっているのを目の当たりにしてきたため、いつしか「そっか。数日経てば '誰かが何とかしてくれるんだ' 」という意識を持ってしまっていた自分がいました。                             この部分に関してはまた後で触れていきたいと思います。この部分もまた私にとっての「伝えたい事」です。

話を戻しましょう。                         例えば目の前で人が車に轢かれたとします。皆さんはどうしますか?   おそらく多くの人が、「すぐに駆け寄り、身を案じ、救急車を呼ぶ」という選択を取ると思います。                           しかし、「目の前で '動物' が車に轢かれたの見た」としたらどうするでしょうか?人が轢かれた時と全く同じ行動や対応、もっと言えば「同じ心情」で「即座に」行動を起こせる人がどれだけいるでしょうか?          決して多くはない様に感じます。                    「人間が轢かれてしまった場合」でさえ、「すぐに行動を起こせる人」と「そうでない人」とに分かれると思います。                   おそらく「人間が轢かれた場合」と同じ対応が出来ない理由はこんな感じの思いがあるからではないでしょうか。                              「あぁ・・動物か・・・」、「野良猫  (野良犬)っぽいししょうがないだろ・・・」、「別に車を止めて駆け寄る程でもないかな・・」、「助けたところでどうする・・?」、「急いでるし、動物を助けてましたという言い訳で遅刻は出来ない」、「助けたとしても保険はきかないし治療費が高くつきそう・・・」など、様々な考えを一瞬にして思い浮かべるのではないでしょうか?                                ここで私が言いたいのは、決して「こういった感情を持ってしまう人は酷い」ということではありません。また、「自分はそうはしない人間だ」という主張をしたいわけでもありません。これらの感情は十二分に理解できる感情ですし、時と場合、また自身の経済状況によっては「助ける」という選択肢を取れないことの方が多いでしょう。

 

ここで1つ、私の経験談をお話したいと思います。これは決して美談としてお話するわけではありません。ここにあるのは純粋な「後悔の念」です。

私自身これまで生きてきて一度だけ、「まさに目の前で猫が車に轢かれてしまった瞬間」に遭遇したことがあります。場所は交通量の多い大きな道路でした。その時はバイクに乗っていたのですが、居ても立ってもいられずバイクを脇に止め、猫の元に駆け寄ったことがあります。何より、確かにその猫は車に跳ねられはしたのですが、ぎこちない歩き方になりつつもその後少しだけ歩けていたことから、「もしかしたら救える命かもしれない」と思ったこと。そして、その猫は何とか少しの距離は歩けてはいたものの、最終的には横たわってしまい、その場所が交通量の激しい道路の真ん中であったことから、「このままでは車に轢かれ続け酷い姿になってしまう・・・」と瞬時に思ったことからでした。

すぐに駆け寄りその猫を抱きかかえた際には、その猫はまだ生きていました。体も温かく、そっと抱えただけで毛並みの良さや体の清潔感も感じられたことから、「もしかしたら飼い猫なのかもしれない」と思ったのを今でも覚えています。しかし、猫を抱え安全な道の脇に移動させる途中で、猫の体の力が一気に抜けていき、体全体が伸びていくのを感じました。瞬間的に焦り、「大丈夫!?」と声をかけ猫の目を見たのですが、その瞬間、「目の光」がスー・・・っと消えていくのが分かりました。これは実際に見たことがあったり経験のある方でないと分からないと思うのですが、分かりやすく言うと「漫画などで人が亡くなるシーン」があると思います。そういったシーンの表現で、「眼の光が無くなり暗くなる」といった様な表現方法がありますが、まさにそれそのものでした。                     「あ・・眼の光が消えていく・・。もしかしてこれが命が完全になくなっていってしまう瞬間なのかな・・・」なんてことを瞬間的に感じました。猫の体に外傷は一切なく、本当に綺麗な体をしていたのですが、「全く動かない」という現実に対して、その光景があまりにも現実味がなかったのを覚えています。   

この経験から生まれた後悔が2つあります。                1つは、「その猫を病院に連れて行こうと瞬間的に思えなかったこと。また、実際に連れて行かなかったこと」です。私は医学に精通しているわけではありませんし、素人レベルの医療関係の知識もない人間です。そんな人間が、「この猫の命は完全になくなってしまった・・・」と勝手に判断を下し、その命を諦めたわけです。いつ振り返ってみても、「果たしてあれは本当にそうだったのかな・・・」ということを今でも考えさせられます。もしかしたら外傷はなかったし、一時的な心肺停止状態にあっただけで、すぐに動物病院に連れて行けば命を吹き返したかもしれません。また、外傷がなかったことから勝手に、「多分内蔵をやられてしまったのだろう・・。内臓をやられてしまうともう助からないと聞く・・。これはもう助からないのだろうな・・・」と思ってしまった自分もいました。           

しかしここで絶対的に言えることは、この猫が「人間」だったら私は違う行動を起こしていただろうということです。               勝手に自分の判断で、「この人には外傷がないことを考えても内臓をやられてしまっている。だからもう助からないだろう・・・」、「眼の光が消え完全に動かなくなってしまった・・。既に死んでしまったに違いない・・・」とは思わないはずです。そうは感じるかもしれませんが、まずは即座に救急車を呼び、医療のスペシャリスト達に頼ったはずです。

ここに自分自身の中に、同じ状況下においても「自分が '動物' に対して向けるもの」 と、「自分が '人間' に対して向けるもの」 とで、その「感覚」に「明確な差」があることに気付かされました。もっと強い表現をするならば 、「差別的な感覚がある 」ということを自覚し、それを認識せざるを得ませんでした。                                この件で、「自分自身に対して物凄い罪悪感を感じ、自分を追い詰めてしまった・・・」という様な、良くも悪くも行き過ぎた自責の念に捕らわれることはありませんでしたが、同時に「こういった感覚を持っている自分って何なんだろう・・・」と、何とも納得し難く、悲しく、腑に落ちない感覚が今もあります。                                これが1つ目の後悔です。

そしてもう1つの後悔は、その轢かれてしまった猫を歩行者用の道の脇に移動させた後、そのまま放置してしまった事です。歩道に則して草木が植えられている、ちょっとした花壇がある歩行者用の道を皆さんも一度は見たことがあるかと思います。そこに移動させ、その後は市役所へ連絡もせず数日を経過させてしまいました。これが2つ目の後悔です。 

ここで冒頭に出てきた「母の話」の、「ちゃんと連絡する所があってね。誰かがそこに連絡してくれたらこの子も大丈夫になるから。」と言われ、その「誰か」という部分に違和感を感じた。という所に繋がります。                    

その移動させた場所は花壇の上で、歩行者の邪魔にはならず、かといって誰もその猫に気付かないような場所ではありませんでした。私が知る限り、ある一定量の歩行者が毎日その歩道を利用しているのを知っていたからです。そこに移動させた意図としては、「猫を移動させたはいいが、用事がある途中だったためもう行かなければならない。ここなら車に轢かれることもない。」、「歩行者も割と通るし、気付いた '誰か' が市役所に連絡してくれるはずだ」という考え。悪く言うと思惑がありました。また、その歩道の近くの事故現場の大きな車道は私自身毎日通っていたことから、運転しながらでもその歩道を確認できるため、その猫を市役所の方が見つけてくれたかどうかも確認できるような位置関係にありました。                「次の日には猫の姿はいなくなっているのを確認できるはずだ」と安易に考えて。                               しかし、その猫の姿は数日間同じ場所にあり続けました。その出来事の次の日も、「あれ・・?まだいる・・きっと誰かが連絡してくれる・・」。しかしその次の日も、「あれ・・?まだいるのか・・・どうして誰も見つけてくれないんだろう・・・。絶対誰かが気付いているはずなのに・・」。そして次の日・・・。また次の日・・・。と4日程経ったと思います。そこで気付きました。                               

「誰かではなく、自分がやらなければいけない」のだと。          

今思えば当たり前のことです。当然のことです。しかし、過去の母の教えのせいにするわけではありませんが、「こういった状況の時、誰かしらが市役所に連絡して、結果的に解決してくれていた」という幼少期の実体験があり、それを鵜呑みにし、「自分で何とかする」という選択肢を放棄していることにこの時まで気付かなかったのです。 

「自分は何て愚かだったんだ・・・」とこの時悟りました。

この猫が人間であったなら、「安全な場所に移動させたからもう安心。誰かが見つけて連絡してくれるのを待とう」なんてことは絶対にしません。そう思いすらしないはずです。同時に、自分のしていることが命への冒涜であることにも気付きました。                                すぐさま市役所の連絡先を調べ電話し、場所の詳細を説明しました。しかし、ここで少し余談ではあるのですが、その現場がたまたま「○○市」と「△△市」の微妙な境目辺りであったため、一番初めに連絡した○○市の市役所の方には、「あぁ、そこは△△市の管轄ですね。△△市の市役所にかけ直してください。」と言われたことを覚えています。                         猫を歩道に移動させ、何日もの間何もせず放置していた私にこんな事を言う権利はありませんが、「そんな微妙なエリアの違いなんてはどっちでもいいのに・・。命が亡くなってしまったとしても、数日前まで生きていた '生き物の体' がそこにはあるんだから・・・」と思ったのを覚えています。これが私の2つ目の後悔です。

これら2つの後悔を通して言える1つのことは、「相手がもし動物ではなく人間だったら、同じ対応は絶対にしていない」という事です。           こういった感覚を持ってしまっている自分がいることに、「寂しさと悲しさと悔しさ」を感じました。                        この出来事を経験して教訓を得たことにより、自分が事故に遭ってしまった動物を見つけた際には必ず自分が役所に連絡するようにしています。 (*)この記事を書いていて調べたところ、国土交通省が提供する「道路緊急ダイヤル(#9910)」というものがあるようです。私の場合は、「市役所⇒担当の部署に繋いでもらう」という手段しか知らずに上述の方法を取りましたが、こちらを利用するのが一番の様です。場所による「管轄違い」の問題を心配することなく、全ての道路において対応していただける様です。

 

以上、今回のテーマである「〈動物の命〉動物の交通事故現場を通して感じる事」についてお話させていただきました。              今回はたまたま自身の実体験から、猫のトピックに基づいてお話をさせていただきましたが、その対象が仮に「植物」でも、「昆虫」でも、「魚」でも、「変わらない。変わってはいけない」と感じています。                         「道端を歩いていたら足元に小さな虫がいた」、「花が咲いていた」。そんな時に何の躊躇もなく軽い気持ちで踏み潰そうとする人もいるでしょう。一方でそれを見ても何とも思わない人もいれば、はたまたそれらを「尊いもの」だと慈しみ、そっと踏まない様に避け見届ける人もいるはずです。
一体どれが「人として在るべき姿」でしょうか?

植物でも、昆虫でも、魚でも、動物でも、人間でも、そのどれもが1つの生物であることに変わりはありません。本来そこには上も下もないはずです。その一つ一つには宿した命があり、どんな最期を迎えようと、1つの一生を終えたからには蔑まれていい命なんてないと思います。
尊いものとして扱われるべきです。
こんなことを言うと宗教じみた説教のように感じられる方もいらっしゃるかもしれませんが、純粋にそう感じます。(ちなみに私は特に宗教はやっていません)

現段階の地球上において、「自分たちの意図することは何でも出来てしまう生物」は人間だけだと考えています。理由は、人間は他の動植物に比べ知能が高く、自由に動くことができ、知識や技術があります。「物理的な観点において、人間は必要な物を現実に生み出すことが出来る、他の動植物にはない '力' がある」からです。                                それらの知識や技術を用いて人に手を差し伸べ救うことも出来れば、その逆の選択肢を取ることだって出来ます。今回のケースの様に、動物自身ではどうしようもない状況下になったとしても、人間が手を差し伸べ、車で運び、治療をすれば命を繋ぐことが出来る可能性も生まれます。        しかし、そこに「損得勘定、お金、見返り、差別、自分本位な思考」などといった、様々な人間固有の思想や概念が加わることにより、「本来の在るべき人の姿」からは大きく遠のいてしまっている様に感じます。                                それは裏を返せば、「人間さえそのつもりになれば、'種族を超えたどんな支え合い' も可能」だといういう事です。しかしそれには「心」が重要になってくると感じます。そういったことを何の躊躇いもなく自然に出来てしまう「精神性」とでも言うのでしょうか。

もし全ての人間が本質的に、「人の命も、人間以外の全ての命も '平等・対等' である」と心から思える日が来たならば、きっと世界は愛に溢れ、「争い・対立・差別・憎しみ・無関心」などという概念とは無縁の世界になるのではないでしょうか。                        究極的には、他種族の全ての生物や物質に対しても「慈愛の心」を持ち、まるで自分の大切な家族や恋人に接するかの様な「愛おしさ」を持ってあらゆるものに触れていくことが出来る気がします。

「自分とは違う種族だから」、「違う生物だから」と、そこに「偏見や差別、上下関係という名の線引き」を行うのではなく、どんなものに対しても「平等性・対等性・慈しみ・敬意」を持って相対する精神性を持てること程、「愛おしく、尊いものは無い」と私は感じます。

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〈動物の命〉BSEや鳥インフルエンザ等を患った動物達の殺処分について感じること。

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こんにちは。リオ / Rioです。

はてなブログを始めたばかりの私にとって記念すべき1つ目の記事になります。「何を書きたいか」をふと考えた際に、幼い頃から現在に至るまでずっと心にあったこのトピックを選ぶことにしました。

本日は、「〈動物の命〉BSE鳥インフルエンザ等を患った動物達の殺処分について感じること」というトピックについてお話させていただけたらと思います。                                (注)これから述べることは産業そのものに対する批判ではありません。それを取り巻く制度であったり、我々人間の立場から見た「認識」という観点からお話させていただければと思います。                  それではよろしくお願いいたします。 

お願いします.

私が小学生時代に見たニュースで、「狂牛病・殺処分」というタイトルを目にしたことがありました。その時、純粋にこう感じたことを今でも覚えています。「病気を患ってしまったのならどうして治してあげようとしないのだろう?人間が大変な病気を患ってしまったのなら病院に行くし、製薬会社は必死になって薬の研究を行い特効薬を生み出そうとする。もし完治しなくて長期的な治療が必要なら入院だって辞さない。でも、どうして動物にはそうしてあげないの?人間と差別してるの?」と。

私は幼い頃から動物と人間とで、「どちらが上でどちらが下」といったような概念が世の中にあることに何となく違和感を持っていました。人間自体同じ動物であり、ただの「1つの生物」であることに変わりはないと感じていたからです。そしてこの疑問は後に大学時代の教授によって解決されることになりました。

その教授は本当に知識が豊富で教養があり、心から尊敬できる私にとっての恩師です。どんな些細な疑問にも納得のいく答えを出してくれる方で、教鞭を取る立場にいる '先生' という存在の中で、心から「凄い・尊敬する」と感じたのは彼が初めてでした。                        私自身の「人格面」を両親に育てていただいたとするならば、この教授からは「人生の生き方」や「物事の捉え方や考え方」を教えていただきました。今日に至るまでの私の人間形成や人生観に大きな影響を与えてくれた方です。

ある時その教授の研究室を訪れた際に、かつて感じたこの疑問をふと思い出し質問してみました。「先生、昔 狂牛病って流行ったじゃないですか?その後は鳥インフルエンザも話題になり、大量に殺処分されたと報道されました。これらに関してなのですが、どうして人は病気を患った動物達を救おうとしないのですか?そもそもその殺処分される動物達は私達の '食' を満たすために育てられて、殺されて、命を頂くことに感謝しなければならない対象じゃないですか。それなのにその動物達が病気を患ったら ’殺せばいい’ で片付けるって・・・。それって命への冒涜だしおかしくないですか!?」と。

私のこの質問に対し教授はこう答えてくれました。           「シンプルに言う。それは人間側が '儲からない' から。」

それを聞いて私は「はっ」としました。同時にとても悲しい気持ちになったのを覚えています。世の中はそれらの動物達を救うためにお金をかけるよりも、彼らを殺処分してしまい、現存する健康な動物達を育てる方が「合理的」と考えているのだと。そこに「命の尊さを想う心」は無いのだと感じてしまいました。

 

確かにこの地球は人間が支配しています。支配という表現は語弊があるかもしれませんが、言語があり、知恵があり、技術があり、これらを駆使すれば他の動物より秀でることは容易いですし、自然災害以外のものであればこの地球上で人類の敵となるものは無いとも言えるでしょう。しかしそれは、「=人間は偉い」、「=人間は他の動物の命をないがしろにしていい立場にある」という解釈になるのでしょうか?私は違うと思います。

一般的には現代を生きる人々の認識として、「我々人間は生まれた時からこの地球のトップの存在(生物)として君臨している」という、誰が口に出さずともこの「無意識の共通認識」を多くの人が少なからず成長していく過程で持ち始めると思います。無論、この様な記事を書いている私自身も含めてです。                                人間としての毎日を生きていく過程で、「無意識下で他の動物を下に見てしまっている部分がある。しかしそこに悪意があるわけではない。」といった様なニュアンスだと分かりやすいでしょうか。

これまでの長い歴史の中で、私達人間の欲望から「自分たちが望むタイミングで自由に肉を食べたい」という欲求が生まれ、「家畜」というシステムを作りました。それは同時に、「生まれながらに最後は人間に殺され、食べられて命を終えることが決まっている動物達を意図的に生み出し続けている」という事に他なりません。これを改めて客観的且つ冷静に考えると、「物凄く残酷なシステム」を私達は作り上げ、それを感覚的には当たり前のように受け入れ、日常に取り入れてしまっています。

ですが一方で、私自身もこれを根本から否定することは出来ないでいます。なぜなら私はベジタリアンではありませんし、ヴィーガンでもありません。私自身お肉は好きですし、お肉の美味しさを既に知ってしまっています。 もし、「あなたは今後死ぬまでお肉を一切食べることが出来ません」といきなり言われたら、「それは困る・・・」という感情を素直に抱くでしょう。日常においても、「牛肉が食べたいなぁ」、「鶏肉が食べたい気分だなぁ」、「今日は魚がいいなぁ」、「スーパーに寄って買って行くか」などと自然に思ってしまうことも当然の様にあります。                      しかし同時に、「そういった動物達の命のおかげ」で我々の不自由のない食生活が成り立ち、「満たされた食生活」を送れているという事実を決して忘れてはならないとも思っています。                      必ず心のどこかに留めておくべき事柄であると。

 

今現在我々が生きているのは令和の時代であり、原始時代に自分達の命を必死に未来に繋げるために狩猟を行っていた時代とは訳が違います。特に日本においては幸いにも食べ物は豊富にあります。分け与えたり共有する意思さえあれば、世界の飢餓で苦しんでいる多くの人々も救えるでしょう。       私はコンビニでのアルバイト経験があるのですが、毎日とんでもない量の食べ物が廃棄されているのを目の当たりにしてきましたし、実際に廃棄してきた当事者でもあります。そのアルバイト先は、「廃棄物はスタッフが自由に持ち帰ってもいい」という有難い環境下であったため、私自身は命を無駄にしないためにも出来るだけ多く、そして自分が責任を持って食べ切れる量を持ち帰りそれらを頂いていました。しかしそれでも多くの「持ち帰られもしない廃棄物」は存在していました。(注)勿論、動物の肉を使用していない商品もありますが、「動物の肉が使用されていない食べ物なら廃棄されても問題ない」というわけでは当然ありません。                                  せめて、「人に殺され食べられるためだけに生まれてくる命があるのならば、その命をこんな形で・・廃棄物なんかにして終わらせたくない・・・。終わらせてはいけない・・・。」と強く感じました。              極端な言い方をしてしまえば、そんな大量の廃棄物が出てもなお、食料不足にはならない満ち足りた食生活が営まれる社会が形成されているにもかかわらず、「人間の欲を満たすためだけのシステム」を敢えて余剰に作り出しているという言い方も出来るでしょう。                    だとすれば、人間によって生み出された「家畜」というシステムや、その「家畜ありき」で回っている「世界・社会・経済」がある以上、もしその動物達が病気を患い苦しむようなことがあれば、人間がその命を救おうと行動を起こすのは当然の義務であり、彼らの命に対して敬意を示す行為は当たり前の事ではないでしょうか?

「彼らの命を意図的に作り出し、その命を頂いている我々人間の最低限の礼儀と感謝があって然るべき」ではないかと私は思います。          我々人間の都合で意図的に作り出された命に対して、「病気を治すのには多くのお金と労力がかかるからもう要りません」、「そんな病気を患った動物は誰も買わないし売りものにならない。処分してください。」、「健康な子達はお金になるので丹精込めて今後も育てます」。                     これらの言葉を同じ人間に対しても言えるでしょうか?          これではあまりにも「人としての道理」から外れているように感じてなりません。

物凄く極端な例を挙げてみるとするならばこんな感じでしょうか。                               「Aさん家には子供が10人います。その内のお子さん5人が病気を患い苦しんでいます。この病気は感染したとなると世間的にも良くは見られません。さてこの子供達の親御さんはこの後どういった行動を起こすでしょうか?」                            純粋に子供達を愛し育てている親であれば、すぐにその5人のお子さんを病院に連れて行き薬を貰い、看病するはずです。               しかしもしそこで、「治療をするにしても治療費がかなり高くなりますし完治までの期間もそれなりにかかります。それに、この病気が治ったとしても世間がこの5人のお子さん達を見る偏見の目は変えられない可能性もあります。治療するより見捨てた方が良いと思いますよ。そちらの方が合理的です。」と医師に言われたとしたら親御さんはどういった気持ちになるでしょうか?                               「なるほど。では治療はしない方がいいですね。お金がかかる上に、この子達5人はこの病気にかかってしまった以上、今後も世間から良くは見られないだろうというのは同感です。うちにはもう5人子供がいるのですが、そっちの子達は至って健康体なのでそちらの子達を大切に育てていきたいと思います。」なんてことを言うでしょうか?こんなことを言われた子供達は一体どんな気持ちになるでしょう?子供を心から愛している親であれば、こんなことを言われたら計り知れない程の怒りを感じるに違いありません。                     しかし、これが「人間」ではなく「家畜」という概念に置き換わったとしたらどうでしょう?おそらく多くの人は感じ方が変わるのではないでしょうか。同じシチュエーションにおいて、対象が「人間」ではなくなっただけでです。また、これを「ペット」という概念に置き換えてみてもいいのかもしれません。「対:人間」に抱く感情と同じ感覚を抱くのではないでしょうか?                               「個人的な愛情を注いでいる生き物」と捉えるか、「何の愛情も注いでいない '自分とは関係のない生き物' 」として捉えるかの違いで、その認識は大きく変わります。                              本質的に、命とはそんなに簡単に区別され、差別されていいものなのでしょうか?

これが「人間」と「他の動物」との間に存在する、「捉え方・捉えられ方」と「認識の仕方・認識のされ方」の '違い' だと個人的には感じています。           本来は同じ一つの命であるはずなのに、どこでこういった感覚が我々自身の中に生まれ、それを良しとしてしまっているのでしょうか?

 

 

ここまで私自身の考えや感じてきたことをトピックに基づいて書かせていただきはしましたが、このトピックについての明確な解決策は私には分かりません。上記の文章を読み、「ただの偽善者だ」、「それはあくまで感情論に過ぎない」、「そんなことをして誰が得をするんだ?企業や生産者は慈善活動でやっているわけではない」、「お前も肉を好きで食べてるんだからツベコベ言う資格はない」、「現実問題、当事者の方々も辛い。実際に救うための費用をかけると赤字になって潰れてしまう」、「当事者じゃないからそんなことが言えるんだ」、などといった様々な意見も当然あるでしょう。         これらの意見はごもっともだと思いますし、こういった疑問や問題意識を感じながらも、解決策を生み出すための行動を何も起こしていない時点で私はただの偽善者だと思います。

しかし同時に、多くの命を扱い、その命を頂いて生き長らえている私達にとって、「そういうものだよ」、「仕方のない事だよ」の一言で片付けていい問題であってはならないとも感じます。

私自身が出来る事としては、「現状のシステムが変わらない限り動物達のお肉は生産され続けるし、廃棄物もゼロには絶対にならない。ならばその我々の命を繋ぐための食料となってくれた命に感謝して、少しでも消費に貢献し、美味しく頂く」、「頂くからには絶対に残さない」、という事を心掛けていくことが今の私に出来る精一杯の様に感じます・・・。             (注)ここでの「現状のシステム」が指す意味としては、「家畜のシステム」を指すものではなく、それを取り巻くあらゆる「環境」そのものを指しています。例えば、現在法律上では動物は「物扱い」にされていることや、上記のような理由で殺処分対象になってしまう動物達を国として救うような法律や制度が整っていないこと、廃棄物削減に対する国民や国家としての意識の問題など、現状では改善に向かっていない状態を指しています。

 

はてなブログを通して伝えていきたい事

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はじめまして。リオ / Rio と申します。 

この度はてなブログを始めることにしました。               幼い頃から日常の事だったり、世の中の事だったり、何かしらを感じたり想ったりすることが多かったのですが、「それを言語化したり、表現したりする」という選択肢はこれまで思い付きもしませんでした。しかし、何かしらの自分の想いや考えを発信する場所が欲しいという気持ちが強くなってきたところ、はてなブログに辿り着いた次第です。

あ、ちなみにリオという名前は私が海外に在住していた際、現地で一番初めに出会ったネイティブの方に付けていただいたニックネームです。私の本名からモジってはいるのですが、私自身は当初、「ブラジルのリオネジャネイロから来ているのかな?」なんて連想をしていました。しかし後になって分かったことなのですが、名付け親の本人の意図としては、「道路工事をして強固で安全な地面を作る際、網状にした鉄の棒が地面には埋められているんだ。それをリオと呼ぶんだよ。君はそれだけ重要な物(人)ってことさ。」と言われたことを今でも印象深く覚えています。本人は深い意味はなく言った言葉だったのかもしれませんが、せっかくご縁のあった名前です。そんな人間になれたらと今でも強く思います。

さて、話は少しずれてしましましたが、お話のジャンルやカテゴリーは問わず、純粋にこれまでの自分自身の人生を通して「感じてきたこと・感じていること」、「考えてきたこと・考えていること」を素直に言語化し表現していきたいと考えています。

ある時は問題提起かもしれないし、ある時は単純な疑問かもしれないし、その場で自分なりの結論が出せることもあれば出せないこともあるかもしれません。また時系列は関係なしに、「子供の時こんな事考えたなぁ」、「最近はとある出来事でこんなことを感じた」など、ふとした思い付きをトピックに挙げていきたいと考えています。

純粋な「自分自身の気持ちや感情の表現」を楽しみながら、 その想いを皆様にお伝えしていけたらと思います。

どうぞよろしくお願いいたします。